
歌仙絵とは和歌に秀でた歌人の画像で、普通歌人の肖像にその歌の一首を、ときに略伝を添えたものを指します。鎌倉時代から江戸時代に非常に流行し、藤原公任 (966-1041) 撰の「三十六人撰」所収歌人を称した「三十六歌仙」をはじまりとする種々の歌仙絵が制作されました。歌仙絵は和歌文学、日本美術、また、装束や色彩といった日本文化全般にわたる古典文化研究を深める上で、貴重な資料のひとつといえます。
本画帖の「新三十六歌仙」は後鳥羽院 (1180-1239) が撰んだといわれる歌仙を描き、表に絵色紙、裏に詞色紙を貼付しています。「新三十六歌仙」は「三十六歌仙」との対比の上で重要な作品であり、また後鳥羽院の問題、鎌倉歌人の後代の受容など、多くの研究課題を有した作品です。
作者の狩野洞雲は本名益信、 11 歳で狩野探幽の養子となるが、探幽に実子が誕生したため離別し、駿河台狩野家を興します。徳川家光に寵遇され、功績を積んだものに贈られる位階の一つである法眼(ホウゲン)に叙せられました。
狩野洞雲(狩野益信・1625-1694)画
絹本金銀泥彩色画
本紙 たて 31.7cm よこ 24.6cm
折帖装 箱入
フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』翻字
仮名遣い・漢字など、原文のまま翻字しました。清濁は、私意により、適宜施しました。
翻字は、フェリス女学院大学大学院学生、伊東真希・高橋由華・土橋由佳子・長屋夢奈・縄手聖子・武藤麗が行ないました。
左 順徳院
ほのぼのと明行やまのさくらばなかつふりまさる雪かとぞみる
右 藤原秀能
あし曳の山のしたみち跡たえて尾上のかねに月ぞのこれる
左 宮内卿
かきくらしなをふるさとの雪のうちにあとこそみえねはなは散りけり
右 西行法師
をしなべて花のさかりになりにけり山のはごとにかゝるしら雲
左 後徳大寺左大臣
なごの海の霞のまよりながむれば入日をあらふおきつしら浪
右 藤原隆祐朝臣
けふはなをみやこもちかし逢坂のせきのあなたにしる人もがな
左 西園寺入道前太政大臣
桜花みねにも尾にもうへをかむ見ぬ世の春を人やしのぶと
右 右衛門督通具
いそのかみふる野のさくらたれうへて春はわすれぬかたみなるらむ
左 皇太后宮大夫俊成
またやみむかたのゝみ野のさくらがり花の雪ちるはるのあけぼの
右 二條院讃岐
山たかみ嶺の嵐にちるはなの月にあまぎる明けがたのそら
左 後京極摂政殿前太政大臣
そらはなをかすみもやらずかぜさえてゆきげにくもる春の夜の月
右 小侍従
いかなればそのかみやまのあふひ草としはふれどもふた葉なるらむ
左 権大納言其家
秋ふかきもみぢの庭のまつの戸はたがすむ峯のいほりなるらむ
右 式子内親王
ながむれは衣手すゞしひさかたのあまの河原の秋のはつかぜ
左 後鳥羽院
龍田姫かぜもしらべもこゑたてつ秋や来ぬらむ岡の邊のまつ
右 前大僧正慈鎮
身にとまるおもひを萩ぼうはばにてこのころうれし夕ぐれのそら
左 前中納言定家
しら玉のをだえのはしの名もつらしみだれてをつる 袖のなみだに
右 前大納言忠良
ゆふづく日さすやいほりのしばの戸にさびしくもあるかひぐらしのこゑ
左 家長朝臣
春雨に野沢の水はまさらねどもえいづるくさぞふかくなりゆく
右 前内大臣
雲のゐる遠山姫のはなかつら霞をかけてにほふ春風
左 前大納言為家
立のこす梢も見えす山さくらはなのあたりにかかるしらくも
右 土御門内大臣
おりしもあれ月はにしにも入ぬらんくもの南のはつかりのこゑ
左 信実朝臣
あけて見ぬたが玉章もいたづらにまた夜をこめて帰るかりがね
右 源具親朝臣
はれくもる影をみやこにさきだてゝしぐるとつぐる山の端の月
左 仁和寺宮
萩の葉にかぜの音せぬあきもあらばなみだのほかに月はみてまし
右 俊恵法師
ふるさとの板井の清水みくさゐて月さへすまずなりにけるかな
左 後九条入道前関白太政大臣
かすみしくはるのしほぢをみわたせばみどりをわくるおきつしら波
右 宜秋門院丹後
吹払ふ嵐のゝちのたかねより木の葉雲らで月やいづらむ
左 土御門院
伊勢の海のあまのはらなるあさがすみそらにしほやく烟とぞ見る
右 藤原清輔朝臣
柴の戸に入日のかげはさしながらいかにしぐるゝ山べなるらむ
左 藤原有家朝臣
朝日影にほへる山のさくらばなつれなくきえぬ雪かとぞみる
右 従二位家隆
かぎりあれば明なんとする鐘の音になをながき夜の月ぞのこれる
左 殷冨門院大輔
はるかぜのかすみふきとくたえまよりみだれてなびくあをやぎのいと
右 寂蓮法師
かづらきやたかまの桜さきにけり龍田のおくにかかるしら雲
左 参議雅経
しら雲の絶間になびく青柳のかづらき山に春風ぞふく
右 俊成卿女
したもゑにおもひ消なむけぶりだにあとなきくものはてぞかなしき