フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
27-3・他者の競演/饗宴〜ダイアナ・ウィン・ジョーンズと同時代のファンタジーから-1
2005年6月27日発行読書運動通信27号掲載記事5件中3件目-1
特集:西村醇子先生講演会
「講演で、ダイアナ・ウィン・ジョーンズがらみで、
ファンタジーについて話してほしい」という依頼は、
正直言いまして去年の秋から色々と受けております。
   その度に少しずつ焦点の当て方を変えてきておりますが、
ちょっと、ハウルの話は飽きてきました。
それで今回は、ハウルにはもちろん触れますが、
その姉妹編の『アブダラと空飛ぶ絨毯』と、
それ以外のファンタジー作品を使ってお話させていただきます。
ねらいは、ファンタジー文学にみる「他者(other)」の表象を、
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作品を中心に拾い上げてみることです。

  私たちはすべからく物事を自己中心的に考えています。
ネイティブ・アメリカンのことわざに、“Walk two moon”というのがあります。
シャロン・クリーチの同名の作品によりますと、
人のモカシン、要するに、他人の靴をはいて二ヶ月歩きなさい、
そうすると他人の立場が少しは分かる、ということだそうです。
他人のモカシンを履かなくても、ファンタジーの場合、
「魔法を使った変身」というものがそれにあたる<装置>として使われています。

いま“other(他者)”という言い方をしました。
何らかのイデオロギー的な機構によって、あるシステム(体制)から
排除されている存在を「他者」というふうに呼んでいます。
詳しくはラカンの理論などを参照していただきたいのですが、
要するに「主体でないものすべて」というおおざっぱなくくり方もできますし、
言語を介して個人というものが構築されますが、
そのとき主体が所有しないものすべてを他者と呼ぶこともできるわけです。
ヨーロッパを中心にしていくとそれはアジアであり、
ヨーロッパ以外のものである、白人中心的であれば白人以外のものである。
男社会において、それは女や子供である――という意味では、
「児童文学」というのもひとつの他者ということになります。
他者というものは決して固定的なものではないし、
アスペクトもいくつかございます。
そのひとつは文化的に異なったグループに対してくっつけられる他者、
もうひとつは個々の人間の関係(リレイション)のなかで結び付けられる他者、
そして三つ目に、本と読み手というとき、本の中に私たちが見出す他者、
というように、少なくとも三つの側面があるのではないかと思います。
ただし、その他者と自己というものは、コインの裏表のようなものです。
決して常にどこかに一定しているものではなく、
あるいはオセロゲームのように、反転していくものである、
ということも頭のすみに入れていただきたいと思います。
さて、私はいつもイントロダクションとして絵本を使っておりますが、
今日もその伝で『Town mouse and Country mouse』という、
ヘレン・グレインの絵本を選んでみました。
これは1992年に絵本化されております。
『町のねずみと田舎のねずみ』というタイトルを聞けば、
イソップにそういう話があったと思い出してくださると思います。
もちろんこれはイソップを下敷きにした物語です。
町ねずみが最初に田舎ねずみの家を訪問し、
次に田舎ねずみが町ねずみのところにいくという、単なる訪問を通じて、
他者――他者の文化を浮かび上がらせている、
非常に単純ですが効果的な絵本になっています。
都会のねずみがやってくると、田舎ねずみはごちそうを出します。
それは田舎ねずみにとってはとっておきの食材であり、
健康的なシリアルです。ところが、都会ねずみの口に合わない。
次に、なにか面白いものはないかとたずねた都会ねずみに、
田舎ねずみは、夕日が沈むところがすばらしいごちそうだと答えます。
でも都会のねずみにとってはそれでは刺激がなさすぎる。
田舎に見切りをつけた彼は、田舎ねずみを都会に連れて行きます。
連れて行って最初に見せたのは、映画館のスクリーンに映ったネコ。
作り物だよ、とあっさり言う都会ねずみに対して、仰天する田舎ねずみ。
彼は都会ねずみの家に着くまで、さんざん怖い思いをします。
また、あまりにテンポが速い世界についていけず、
また普段食べなれないものを食べさせられてクラクラして、
自分の家がいいよ、と言って帰っていきます。
そしてお互いに自分の暮しが一番だと思うところが最後の場面です。
これは、自分のいる地点を基準にして物事を判断する時、
ほかの領域に対して非常に見方が厳しくなることを示しています。
また、絵本で見ている私たちは、彼らを他者の視線で見ることができるし、
客観的な判断ができるということです。
本を読むことの効用というのは、
第三者の立場からいろいろな言い分を見て相対化していけることですが、
それをこの単純な一冊の絵本も教えてくれるわけです。
なおかつ先程の映画館のスクリーンでは「トムとジェリー」という
文化的な引用も行い、それが一つの伏線となって子どもたちに予測させるという、
高度な手法も織り込んだ物語であったということがわかります。
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