フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
27-3・他者の競演/饗宴〜ダイアナ・ウィン・ジョーンズと同時代のファンタジーから-3
2005年6月27日発行読書運動通信27号掲載記事5件中3件目-3
特集:西村醇子先生講演会
さて、『アブダラと空飛ぶ絨毯』の話に入りたいと思います。
主人公は絨毯商人のアブダラという若者で、
彼が不思議な絨毯を買ったことから、色々次から次へ
不思議な事件に巻き込まれる。そして、元来のん気で、
夢見がちな若者だったのに、絨毯のせいで運命の急転を
いくつも経験していく、という物語です。
アブダラはソフィーとちがって基本的には自分の姿のままで行動しています。
でも、例外的に変身する場面があるので、そこをまず検証してみましょう。
物語の舞台はアラビアン・ナイト的な世界ですから、
アブダラが見つけた瓶の中にはジーニーがいます。
ところがそのジーニーが意地悪で、アブダラが願い事をしてくるのが
面白くなく、報復の機会を狙っていました。ある時
「お願いですから皆に見つからないようにしてください」と言われると、
ジーニーは「皆に見つからなきゃどんなものでもいいだろう」と、
アブダラを蛙に変えたのです。蛙にされたアブダラは、蛙の視点、
つまり低い立場でしかものが見えなくなり、なおかつ蛙の思考様式に
染まります。要するに蛙の身体にもろに影響されてしまって、
「何か僕には仕事があったような気がするんだけど」と思いながら、
反射的に飛んできたハエを捕まえて食べるのです。
その後も、蛙になっているせいで逃げ惑い、殺されそうになっているので、
この変身はアブダラにとっては災難でした。
これはおそらくジョーンズが、『蛙の王様』などの
「蛙は人間の王子が呪いで変身したものだ」という前提を踏まえて、
遊んでいる部分でしょう。グリムの話が有名ですが、
ほかにもそういう類の物語はたくさんあります。視点を低くすることによって、
見えてくる世界が違うというのも、ファンタジーによくある仕掛けで、
それを利用している場面であるということを、今の「身体」にからんで
指摘しておきたいと思います。
さて、この先は文化の違いが示す他者性へ、今日のいわば本論へ
話を進めていきたいと思います。
先ほど申し上げましたように、『アブダラと空飛ぶ絨毯』という作品は、
アラブ圏の文化を下敷きにしております。
といっても、英国人であるジョーンズが知っているアラブ圏の文化です。
彼女が小さい時に読んだ『千夜一夜物語』が下敷きでしょうが、
それにさらに大人になってから得た知識を取り入れて、
彼女流のアラブ圏文化というものを作り上げたのがこの作品です。
 訳書あとがきでも触れましたが、ディズニーがアニメ映画『アラジン』を
製作した時期は、ジョーンズの作品出版よりも後です。
でも映画に空飛ぶ絨毯が出てくるせいもあり、私たちは、
アラビアン・ナイトと絨毯の組み合わせをごく普通のことのように
思ってしまいます。しかし空飛ぶ絨毯は『アラジンと魔法のランプ』という
作品には出てきません。ジョーンズはアンデルセンの短編『空飛ぶトランク』や
アラビアン・ナイト全般に影響を受けているのだろうと思います。
わたしが探した範囲では、青土社刊の『アラブの民話』の
『物語のなかの物語』という、イラクで集めた物語の中に、
絨毯が出てきていました。要するに絨毯というのは、
砂漠などで暮らしている移動する民族にとって欠かせないもの、
だからそれがお話の中に出てくる、ということのようです。
 先程あげた『物語のなかの物語』は、文字通り物語が入れ子になっています。
ある人が情報を得ようとすると、
相手は「あることを調べてこい、そうすれば答えてやる」と言う。
次にその情報を求めて別の人に話を聞きに行くと、
また同じようなことを言われる――という調子で、順繰りに話が先送りされます。
とうとう主人公は魔法の絨毯の所有権で、ふたりのジンが
争っているところへ行き合わせます。ここでやっと
絨毯が空を飛ぶ場面が出てくるのです。これはどちらかといえば
マイナーな話で、有名なアラビアン・ナイトのお話のなかで
空飛ぶ絨毯が大活躍する物語はあまりないようです。
なぜ空飛ぶ絨毯が出てこないのか?
私の考えでは、ジンが城でもなんでも勝手に動かしてくれるから、
移動手段として絨毯を使う必要がないせいではないかと思います。
 絨毯はアラブ社会の、部族を単位としたベドウィンの
生活に欠かせなかったので、彼らの物語のなかに絨毯が
出てきたのは当然でしょう。そのベドウィンの物語に色々な国の
物語が入り込み、今知られているような『アラビアン・ナイト』に
なっています。みなさんもご存知でしょうが、アラビアン・ナイト
(千夜一夜)というのは、アラビアやエジプトで口伝えに語られていた物語に、
インドやギリシャの話も混じっていて、古くは九世紀、
新しくは一六世紀くらいまでの物語をアラビア語で書き取っている、
そういうものです。当然、色々な要素がミックスされているわけです。
ジョーンズは漠然とイスラム的なものを作品のなかで使っています。
一番雰囲気づくりに役立っているものが今言った絨毯で、
次にバザールという場所、そして、もうひとつ大きなキーになるのが
「庭」ではないかと思います。
イスラム庭園というものは、外界から切り離された私的な場所で、
囲われた空間です。その基本コンセプトは、日中の暑さをはらう涼しさ
“coolness”です。水盤から溢れる水音や、そよ風にそよぐ衣擦れの音がし、
さらにそこに夜更けの香りがたちこめる、というような
くつろぎの場所がイスラム庭園のコンセプトです。
コーランのなかでは楽園の象徴として引用されているそうで、
現世でも、庭園でそのイメージを実現しようと試みているものだそうです。
言い換えれば、庭の外の空間が日常です。パラダイスは、
パラダイスと対照的なものがあってはじめて意味をもつのです。
日常の貧しさ、夏の熱、砂漠の過酷さ、こういったものと対照的に、
日陰と水というものが意味を持ってくるわけです。
そして、自然と調和していくという精神がその特質でしょう。
 『アブダラと空飛ぶ絨毯』のなかで、夢想家のアブダラは
ひょんなことから魔法の絨毯を買い取ります。
そしてまもなく、彼は夜の庭園のなかに自分がいることに気付きます。
本文を読みます。

「これは夢に違いないとアブダラは思いました。満月に近い月が天空高く上り、
白絵の具のように白い光を、芝生に咲くたくさんのかぐわしい
小さな花々に投げかけています。まるい黄色いランプが木々につるされ、
月光の届かないところにも光を当てています。
アブダラがいる芝生の向こうが見えます。
そこには屋根つきの回廊があり、しゃれた柱につるが巻きついています。
回廊の奥のどこかから、ちょろちょろという静かな水音が聞こえてきます。
あたりはとても涼しく、天国のように心地よかったので、
アブダラは起き上がり、水音の源を探し始めました。」

音の出どころは、大きなシダのような茂みのむこうにあった、
大理石の噴水です。完璧だと思える庭には、なおかつ愛らしい娘がいました。
これが彼が恋に落ちる<夜咲花>との出会いになります。
これらの場面から、今言ったイスラム庭園のコンセプトを、
ジョーンズがうまく取り入れていたことがわかると思います。
 これは、私たちが馴染んでいる英国風の庭とはずいぶん違いますよね。
物語の中に、アブダラが追っ手を避け、北の国へ行く場面があります。
初めてイギリス風の家を見たとき、アブダラは屋根を草でしか
葺くことができないとは、なんて貧しいのだと思います。
でも、庭にいっぱい草花をつたわせている家がいたく気に入り、
後に理想の庭として設計するようになっています。
先程のイスラム庭園とはだいぶ違っていますが、どちらにしろ、
普段のアブダラはバザールにいて、お金があるときにちょっと
公園に行ってみるくらいで、立派な庭とは縁がない暮しでした。
このように、庭園のコンセプトひとつとっても、
この作品がイスラムというものをヨーロッパから眺めたアジア文化として
描いていたことがはっきりしています。
言い方を換えればイスラム圏の文化を詳しく扱うかわりに、
アブダラの物語の背景として、作者が都合の良いように拾いあげた
イスラム圏文化という見方ができると思います。
 作品にはネーミングの問題も扱われています。
アブダラが逃げた北の国は、オキンスタンという国でした。
オキンスタン国は、アブダラの故国より北にあって、王様がいて、
つい最近戦争があって、そこでは魔法使いが何やら戦争に手を貸した国と
表現されています。勘の良い方はもうお分かりでしょうが、
アブダラたちが「オキンスタン」と呼んでいる北の国は、
一巻目に出てくる「インガリー」のことです。インガリーはもちろん
イングランドをもじった名前です。自国文化中心の私たちは、
よその国に対して勝手な名前をつけていきます。アブダラたちが、
インガリーのことをオキンスタンと呼んでいたのもそれです。
アブダラを視点人物として、私たちはイギリス文化というものを
外から見ることになります。そのとき、私たち日本の読者は、
さらにそれをアジアの、日本人の目で見ますから、
どうもジョーンズの描くイスラム世界にはくさいところがあるな、
と批評したくなる。それでかまわないのだと思います。
それは私たちが日本から見るということの強みでしょう。
ジョーンズはおそらくイギリスの子どもたちを第一の読者として
想定しているはずです。そのイギリスの子どもたちがこの本を読めば、
アラブというイスラム圏から見たイギリスはこのように
映るかもしれないと気づくのだと、思います。
このように、他者のまなざしによる見方の違いというものを
意識させる仕掛けがふんだんに用いられている作品なのです。
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