フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
27-3・他者の競演/饗宴〜ダイアナ・ウィン・ジョーンズと同時代のファンタジーから-5
2005年6月27日発行読書運動通信27号掲載記事5件中3件目-5
特集:西村醇子先生講演会
ここで少し、『アブダラ』に戻ってお話させていただきます。
「空中の城(Castle in the Air)」というのがこの作品の原題です。
これは空中楼閣という意味で、白昼夢に耽り、夢のような計画にうつつを
ぬかしている主人公の性格を示唆した言葉です。それと“Castle”
というのが前作の魔法使いハウルの城とつながるので、
姉妹編という言い方をしています。『アブダラ』では、英国人にとって
侵略を受けない象徴のはずの「城」が、なぜか侵略され、盗まれていますので、
前作とのつながりを示唆していたと、ずっと思っていました。
ところが最近になって、空中に城があることについて改めて、
どういうことだろうかと思った時、これは、地上にある「壁」をやすやすと
越えていく物語だったことがわかりました。物理的な壁の場合、
わたしたちは魔法の絨毯でもない限り、それを越えることはできません。
しかし国境というものは、目に見えない区切りでしかない。
つまり、国家間が設けた制度上の障壁なのです。そこに言語や文化や人種と
いうものが加わるせいで、強固な壁となって立ちふさがる。
でも城が空中に浮かんでいるということは、それから超越しているということです。
つまり、空中に城を置き、それを(作者が)動かしているということは、
文化越境のシンボルという意味があったのではないか。
そのことについ最近、気付いたのです。
「空中に城を浮かべればどこへでも行ける」とハウルは言いますが、
私たちもものの見方をそういうふうにぽんと浮かせてみればよい。
そうすると、ものの見方が変わってくるだろう
――そういう気付きを与えてくれる物語だったと、
私は何年ぶりかで読みかえして思いました。

ジョーンズの作品は、非常に多彩で、色々なタイプの物語があります。
またひとつの作品のなかでも先程の老人のもっている意味合いが
変わっていくように、変化しています。
彼女を追いかけていくのは楽しくもあり、またなかなか大変でもある。
先程、てらいんくの『二つの世界』を紹介しましたが、
てらいんくでは「ネバーランド」という季刊誌の発行もおこなっています。
その二号が、たまたまダイアナ・ウィン・ジョーンズ特集でした。
私もインタビューを受けて作者のことなどを話しています。
ちなみに、そこに載せた彼女の顔写真――私が彼女の家に伺ったときの写真は、
自慢の写真です。それまで、古い写真しか出回っていなかったですからね。

 最後に、現代ファンタジーの作家はダイアナ・ウィン・ジョーンズ
だけではないということを付け加えたいと思います。
 私がジョーンズを追いかけてきたというのは、彼女が70年代、80年代、
90年代、と今に至るまで、その時々にとても良い作品を出していて、
それが時代とリンクしているということだと思います。
どういう意味で時代とリンクしているかというと、作品の
“post-modern”性が挙げられます。ジョーンズは“post-modern”
の作家です。たとえば、現代の物理学に平行宇宙論、
宇宙が平行して存在しているというような理論があるそうですが、
ジョーンズはファンタジーの作品のなかにそれを先駆けて取り入れています。
SF的なものをいち早く入れてファンタジーをつくっている、
先取りの作家なのです。複雑になっていく現代に対応し、
彼女の作品もまた、さまざまな要因を含みながら、でも底流には、
非常に健全なモラルというものが見られます。
これはリベラルと言い替えてもよいでしょう。
そして、見事なハッピーエンドを描いてくれます。
複雑で、あちこちにちりばめられていた物語の糸を、最後にぴしっと結んで、
読者に充実感を与えてくれます。作者に騙されたな、と思いながらも、
手ごたえというか、充実感を味わえるというのが、
私がジョーンズを好きな理由です。
そして、彼女の作品は読者への働きかけをおこなっています。
ですから、『アブダラと空飛ぶ絨毯』を読んだ私たちは『アブダラ』に
描かれているイスラムについて検証したくなる、検証せずにはいられない。
そして、この個所の理解はどうなんだろうと、考えたり、
勉強しなくてはならなくなる。異文化理解の一助となるファンタジー
であるということが言えると思います。
先程の『呪われた首環の物語』のなかで、ジャイアントというものが、
実は私たち人間のことで、小さい人たちから見れば私たちのやっていることは、
まるでマジックのように見える、ということを述べました。
その私たちにとっては先程のジンとかジーニーといった、
巨大なパワーをもつ精という存在もまた、究極の、そして非常に便利な
「他者」となっています。私たちが良いように使っている「他者」である、
それをこの『アブダラ』という作品が明らかにしていると思います。
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