フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
2007読書シンポジウム報告-28
回答
松田
難しいですね。
新書がこれだけたくさん出る理由は、簡単に言えば、かつては大項目の入門書だったものが、
中項目になり、小項目になり、非常にバラエティに富むようになったということです。
国立情報学研究所が「新書マップ」という、新書のデータベースを作っています。
彼らに聞いたら、新書をつなげていったら百科事典ができるのではないかと言っていました。
たしかに、今は色々な情報が飛び交っていて、電子辞書やインターネットなども含めて、
かなりな情報量があることはあるのですが、それはそれ以上のものではないんですよね。
そう考えると、これだけ膨大に出る新書がつながっていくことで、
今の時代の大きなエンサイクロペディアをつくっているんだというのは、
おもしろい発想だなと思います。
新書では盗作問題が時々起きます。
インターネット上の記事を貼りつけて原稿を書く人もいます。
それでも、新書レベルの200〜300枚という分量を、きちんと書ききれる書き手が
そろってきたことも確かです。
20代後半から30代くらいの書き手もどんどん登場しています。
しかし、昔は今よりずっと教養書の層が厚かった。
新書が流行したから教養書が廃れたということではないでしょうが、
もう一度教養書の層を厚くする準備は出来たかなと思いますね。
そのためには、書店に専門の棚がきちんとでき、廉価で長く提供できる
ペーパーバックの選書、叢書がもっと活発化するとおもしろいと思いますね。

津野
私は最近、ふと気付くとみすず書房の本を手に取っているんです。
これはある種の郷愁ですね。
なにしろ、そろそろ70歳になりますから、本の背後に人格というようなものの裏づけがないと、
知識や思想だけでは、気持が満足しないのですよ。
それは、僕たちが育った環境の中で身についた癖みたいなものだと思います。
   今、学者や研究者の方々が書いた論文で、人格的な裏打ちというか、
文章の背後から地味だけれども魅力的な性格がにじみ出ているとか、
そういうものを求めても難しい感じがします。
大学の空気が変わったせいかもしれませんし、メディアの乱入の仕方がひどすぎるのかもしれません。
それは日本に限ったことではないのでしょうけれども、日本は特に酷いように思います。
この先どうなるのでしょうね。
今は、学問という言葉があまり使われないでしょう。
中野重治は「私は学者を尊敬する、学問を尊敬する」と言いましたが、
ここで言われているような学者や学問というもの自体がないときに、出版界があわてても、
ちょっと難しいのではないかと思います。
もし、そうした学者や学問が必要ならば、これまでとは違った仕方で、
それを構築していかなければならない。
たとえば私塾とか? 先生を辞めてしまうとか? 
でも三田村先生が大学を辞めて、『源氏物語』の新しい翻訳にじっくり取り組むなどということは、
なかなか難しい。やはり新しい仕組みが必要になるでしょうね。

三田村
源氏物語を教えていると、大学の教室よりカルチャーセンターの方が充実している場合があります。
そういう意味では、自分も大学崩壊のただ中にいるのかもしれないと思います。
私は学生運動のさなかに大学に入ったので、授業はまるでなく、研究会だけがたくさんありました。
モノケン(物語り研究会)とか。
その中で育ったので、研究会の雰囲気をいつも理想にしているところがありますね。
大学がリベラルアーツに力を注ぐのは、今の流行ではなくて、昔からのことです。
それから、骨太の教養に戻るのかとか、図書館が深い教養に耐えられるのかということについてですが。
私も、津野先生と同じ思いでして、何が骨太で何が深い教養なのかという根本的な
考え方に変化が起こっていると感じています。
みすず書房的、ちくま書房的な教養が好きですし、基本的にその中に戻っていくような発想しかできませんが、
それとは違う、知の体系自体の変換というものが起きている気もします。
そういう問題も救い上げていかないと、読書運動も続けていかれないでしょうね。
読書運動をやっていく「大学の体力」ということをご質問いただきましたが、
「体力」というのは偏差値でしょうかね。
大きな大学なら可能で、小さな大学ではできないという種類のことではなく、
小さいからこそできることもあると思うのです。
読書運動とはそういうものだと思います。
もちろん私はコミットメントだけはきちんとしていきたいと思っていますが、
それがどうなるかまだ流動的です。
本学の大学図書館が充分かどうかはわかりません。
また、こんな状況の中で、この大学だけで頑張ってみたところで、それは台風の中、
一人逆らうようなもので自己満足でしかないようにも思います。
しかし、始めてみなければなにも言えないのではないでしょうか。
そういった活動を今後どういうふうに発信していくか、同じような運動を展開している
他大学図書館や地域の公共図書館といかに連携し、学びあっていくかが、今後の課題です。
出版界の松田さんにもご意見いただきながら、考えていきたいですね。
私自身について言えば、選書にも書けという命令が某出版社からきていたのは、
たぶんそういう動きの一環だったんだと、今思っています。
新書レベルでなく、もう少し上レベルの本が求められる状況になってきているのは、
本当だと思いますよ。
実際それが成功するかどうかはわかりませんが、少なくとも、あれだけたくさんの
新書が出ているのですから、差異化はしなければなりませんし、はっきりとした差異を
どこでつけるかという問題が、出版社の色々なところにかけられているのではないかと思います。
さて。上手くまとめることができませんが、絶望と拡散としらけがあると同時に、
大変おもしろい状況に、私たちはいるということはいえると思います。
これまで見られなかった、メディアの大変換、グーテンベルクが活版印刷を実用化し、
社会に大きな意識変革をもたらした時代がありましたが、現在、それと同じような、
大変革が起きているのではないでしょうか。
その中で、私たちがもがきながらもどう生きるか、そのもがきのひとつひとつが興味深いと
流されながら思います。
今回、松田さん、津野さんをお招きした理由の一つは、私が『本とコンピュータ』を
愛読していたからということがあります。
この雑誌は残念ながら休刊中ですが、読書をとりまくメディア状況の移り変わり感度よく捉えた特集を
何度も出し、単行本も出していますね。
現在の状況は、そこから叉一歩進んだわけですが、現在の読書、出版、図書館を取り巻く
厳しい状況の中を劇的に解決する方法を、この短い時間の中で見出すことは
当然ながら不可能ではありましたが、この会場に集われた全員の方が、それぞれ、
この状況に立ち向かう術を一生懸命考えておられるということに、大変心強く思いました。
こういうメディア変換の時代の中で、何が衰え、何が生き延びるか。
いままで思いもかけなかったものが生き延びるのかもしれない。
そういう問題に敏感でいたい、時代の波を受けていたいと思います。
ほかにご質問はありませんか?
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