フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
25-2・特集 座談会「ファンタジーとの出会いと魅力」-4 
2005年4月1日発行読書運動通信25号掲載記事4件中2件目
*この記事は7まであります
特集:座談会「ファンタジーとの出会いと魅力」
おしらせ:1.2005年度のテーマ/2.ファンタジー関連おすすめの本
●ファンタジーの境目って・・?●
司会:
私もさっきからお聞きしたいと思っていたのですが、
ファンタジーの境目って一体何だろう?
と考えていて、講義でもファンタジーって一体なんだろうなと考えながら
受講していました。 ファンタジーを昔からファンタジーとは思って
読んでなかったと言うのが正直なところで、最近になって
『ハリー・ポッター』が出てきて、初めて、
「ああこういうものがファンタジーって言うんだ」、と思ったくらいで、
いうなれば日本神話だってファンタジーに入るんじゃないかとも思いますし。
私の意見なんですが、今ファンタジーっていうのは『ハリー・ポッター』に
とらわれた固定観念を持っているんじゃないかと思います。
 私にとってファンタジーは、漱石だとか芥川だとかとは全く別のものの、
新鮮で、自分の世界の中にあるものではないかと思います。
なんて言ったらいいか難しいんですけど。

伊藤:
漱石や芥川とは違うっていうところに突っ込ませていただきますと、
たとえば漱石のメジャーなところでは「夢十夜」、マイナーなところでは
「薤露行」(かいろこう)はファンタジーではないのかという…。

佐藤:
「永日小品」もそうですよね。一部ね。

伊藤:
「幻影の盾」とかね。あと、芥川だったらどうでしょう。
「杜氏春」「蜘蛛の糸」。あと芥川は児童文学も書いてますよね。

佐藤:
「死後」とかね。リアリティという面で言えばどうなの、っていう…。

司会:
それを言われるとイタいんですよ(苦笑)

伊藤:
人によってはファンタジーと思われないわけですよね。
人によってファンタジーの定義は違うけれど。

司会:
うーん、私の固定観念かもしれないですけど(笑)、
漱石とか芥川についてはもともとそういうファンタジーではないという
読み方をしているので、初めから私の世界に入ってきてほしくないと…(笑)。
なんていうか、その、佐藤先生がおっしゃる「テクスト」として読んできてるんで。

伊藤:
うーん、それは我々大学教員に反省を促すようは重大な発言かもしれない(笑)

司会:
それはそれで好きなんですけども。講義の前に漱石や芥川を一旦読むんですけど、
その後講義でそれを分析するというのが、自分の思っているファンタジーとは
違うというか。近代作家という分け方に影響されていると思うんですけど。

伊藤:
僕は今『ホビットの冒険』を講義で分析している訳ですが、
僕が「こういうふうに分析して読みなさい」と言ったら、まだ一度も
読んでいなかった学生は、もしかしたら司会の伊東さんみたいに、
「これはファンタジーではない、これは大学のテキストなんだ」、
という風に思われるのかしら。

三浦:
映画でしか見たことなかったんですけど、今日の授業で戦争が絡んでいたと
伊藤先生はおっしゃっていましたが、現実の問題とからんでいるというのを
先に言われるとそういうふうに思って読んじゃうと思いますね。

伊藤:
そこって難しいですね。大学教員としては、こういう見方もあるんだ、
見方は一つじゃないんだ、と言いたくて色々言うんですけど、
それがかえって想像を妨げてしまうというのは、難しいですね。

司会:
まだ私の中でも、「ファンタジーっていうのはこうだ!」と言うのが
定まってないので、芥川だとか漱石にもそういう話もあって、
そう言われるとそうだよなーと思います。でも分析をしながら聞くっていうのは、
私が思っていたものと違っていると逆に面白いです。前の週の講義で
先生がおっしゃっていたエルフの本を見て、「これだ!」と思って
講義を受けるようなこともあるので。
植え付けられてしまった観念は私の中で反発しあっています。
ファンタジーという文字からすると、なんとなく海外から来たものだというような
感があります。

伊藤:
「神様三部作」というのはそれに思い切りぶつかりますよね。

司会:
そうですね、自分も上代文学が専攻なので、
私は、あれはファンタジーだと思うんです。

佐藤:
リアリティという意味ではリアリティはないし、
ピルドゥームス的ロマンがあればいいというなら、
神話もファンタジーといえるわけね。
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