フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
2006年度第1回読書会『注文の多い料理店』を読む
2006年4月18日(火)12:20〜13:00
附属図書館緑園本館4F 読書運動プロジェクトミーティングルーム
ナビゲーター:三田村雅子先生
*この記事は録音を元に書き起こしたものです。
筆耕:日本文学科3年吉澤小夏
・「紙くずのようになった二人の顔」
 くしゃくしゃになったまま、戻らないのは不気味で印象的でした。
何か悪いことをしたから、それを刻み付けているような気がします。(日文1年)
 →トラウマといえるのではないでしょうか。

・「注文の多い料理店」という店自体が幻想のような気がしました。
化け猫とか、そうしたものすべてひっくるめて、店そのものが幻覚。
タイトルだけみたら、こんなお話だなんてわからないことからも、
この店の意味の深さがあるように思います。(英文4年)
 →タイトルははじめ「山男の四月」だったんです。それではなく
「注文の多い料理店」としたことは、やはり注目したいですね。
 店が現れる時と消える時、共通して「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、
木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。」と書かれます。
それともう一箇所、男たちがブラシを置いた時に「風がどうっと」吹いています。
風によって現れる幻覚、「風の又三郎」ともつながります。(先生)
→賢治の生きた大正時代、サギ広告が流行ったと授業で聞きました。
この看板もそれとつながるのではないでしょうか。

・この作品では、動物も人間も平等に描かれているのが印象的でした。
このような点は、賢治らしいと思います。(国際3年)
 →作品に登場する犬と猫、どちらも不思議な描かれ方です。
猫は最後のドアのかぎ穴から「青い眼玉」がのぞくのみで姿は見えない。
犬が飛び込んだ時、「にゃあお」とはじめて猫らしさが表れます。
また犬は、「白熊のような」と描写されるように、白という神秘性が
強調されて描かれています。
 →この猫は化け猫ですよね。犬は化けることがないのに、猫は化けるのですね。(日文1年)
 →昔から、化けるのは猫です。陰陽でいうと陰が猫で陽が犬、賢治もまたそういう
古来から伝わるものから離れられなかった、とも考えられます。(図書館スタッフ)

・犬がはじめ死んだ時、「二千四百円の損害」と言うのがひどいと思いました。
お金としての価値しか認めなかった彼らが、その犬に助けられているのは皮肉です。(日文1年)
 →「死んだ」と思い込んでいるのも、「役に立たない」=「死んだ」と考えているからでしょうね。
実際には死んでいなかった。「山鳥を拾円」買って帰ればいい、というセリフも、
特に得て帰るものがなくてもいいのに狩りをして生き物を殺している、ということがわかります。
お金や狩りをするというステータスのみ重視している彼らの姿がうかがえます。
犬が助けたといえば、おいてけぼりにした猟師も彼らを助ける存在になります。
そして彼らが口にできたのは、結局この猟師のもってきた団子だけです。
 →金持ちの傲慢さを皮肉る面があるんでしょうね。(オープンカレッジ生)

・最初から不思議だと思っていながら、どんどん奥へ入り込んでいくのが奇妙でした。
お互いに説得しあいながら、だましだまし先へ進んでいくんですよね。(日文1年)
 →はい、ここは人間の「ダマされる心理」を鋭くついてます。
また先程、「注文の多い料理店」というタイトルからは想像できないストーリー、
という意見がありましたが、私たち読者もまた「変だ、おかしい」と思いながら
ページをくっていく。これは彼らが戸を開けていくのと同じ行為ともいえます。
疑いがありながらも、進んでいく、一概に被害者ともいえないですね。
「早く何か暖かいものでもたべて、元気をつけて置かないと、
もう途方もないことになってしまう」とありますが、これは先を暗示していますし、
彼らの自分だましもわかります。(先生)
→構造がグリム童話と似ていると思います。「ヘンゼルとグレーテル」では
「おかしが食べられる」という思い込み思いの強さが、「自分たちが食べられる」と
置き換えられてしまう。自分に都合よく考えるせいでだまされていく
大人の姿ではないでしょうか。(オープンカレッジ生)
   →戸を一枚一枚開けていくのは、わけのわからないものに包まれていく、
猫の胎内にもぐっていく、ともとれます。先程看板の話がありましたが、
あれからひっかけがどんどん働いていくんです。(先生)
 →ひっかけを次々と作っていくのは、賢治自身が楽しくないと書けないでしょうね。
 →クリームを体、耳と塗っていく。身体的なディティールにまでこだわっています。
 →こんなにもえぐい作品を、小学生の時読んでいたんですね。

・作品には、賢治の思想性が強く出ています。「ビジテリアン大祭」という短編があるように
   賢治はベジタリアンですが、この「注文の多い料理店」を書いた頃、ベジタリアンに
なったということです。賢治は法華経に帰依していますし、殺生というものに対して
強いこだわり、思想があったんでしょう。「殺生を善とする」狩人を登場人物にし、
殺生というものの如何を問いかけています。(図書館事務室長)
 →鉄砲のような「ぴかぴかぶり」を嫌う思想もありますね。
この短編集「注文の多い料理店」の序には、
「けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、
あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」
とあります。こんなにも濃い作品、不気味な作品ですが、「すきとおった」ものになるとは、
殺生とかそういったものとまったく関係のない
「読む」という行為を指しているように思います。(先生)

<まとめ>
 三田村雅子先生にナビゲーターをお願いし、1年生から4年生までの学生5名と、
社会人であるオープンカレッジ生3人、図書館職員3人・メンバー6人の
計18名で行われた読書会でしたが、幅広い意見が交わされ、短いながら
大変有意義な時間となりました。
 オープンカレッジの方を読書会にお迎えするのははじめてでしたが、
学生と社会人という世代の違いも、今回の読書会で面白い発見を生んでくれました。
まず1人ひとりに気になった点などを挙げていただきましたが、
そこで学生が描写や作品の不気味さなどを挙げるのに対し、
外部の方が登場人物について思うところを挙げられたのが印象的でした。
登場人物の彼らは、自分で自分を納得させながら奥へ進み、
結局自分たちが食べられそうになりますが、そのことについてオープンカレッジ生のご意見は、
「自分に都合よく考える、傲慢な、お金の価値しか認めない大人の姿を感じる」というものでした。
私たち学生メンバーは、「不気味さ」を強く感じるという意見が多かったのに対し、
社会人であるオープンカレッジ生のご意見は、「人間の姿」のほうを強く感じられたようで、
社会を経験されているからこそ、作品から、はっきりと賢治の思想を捉えることが
できるのではないかと思いました。
学生メンバーの1人が、こんなにもえぐい作品を小学生の時は何も思わず読んでいたのだ、
といいましたが、まさにそれが年齢による理解の深さの違いなのだと思います。
小学生の頃、この作品を読んだときには、深く考えず、ただ不気味だ、怖い、と
それこそグリム童話と同じような印象を受けていたことでしょう。
しかし大学生になり、今日のように読み返してみると、こんなことが書いてあったのかという
発見があります。その発見というのは、以前読んだ小説を、もう1度読み返したときに
前にはわからなかっことや気付かなかったことがわかった、というのと単純に同一ではありません。
私たちは、物語の中の些細な描写から、いろいろなことが読み取れるようになっていました。
それらは、自分の姿や人間のありようが少しずつわかり始めたからこそ
気付くことができたのだと思います。
宮沢賢治は、子ども向けの童話として作品を描きながらも、大人への発信もしています。
賢治作品の新たな魅力が発見できた時間でした。

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