フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
2006年度第5回読書会『よだかの星・猫の事務所』を読む
まとめ 日本文学科3年 吉澤小夏

  諸橋泰樹先生を囲み行われた第5回読書会は、
オープンカレッジの方にもご参加いただき、予定されていた
『よだかの星』に加え『猫の事務所』についても話し合いを行った。
読書会ならではの話し合いの深まり、興味のひろがり、
今回も有意義な時間となった。

 はじめに、集まった方々ひとりずつから作品の感想をうかがった。
幼い頃読んだ時の「なぜよだかだけがいじめられるのか」「かわいそう」
という感想から、この作品にある「いじめ」のテーマについて話は移る。
小学校3年生の息子さんをもつ参加者の方は、作品がこのような
「なぜいじめはあるのか」という疑問と、「共に生きること」という
大切な視点を教えてくれる、という点を指摘された。
現在「いじめ」と「死」の問題は、いじめを苦にした自殺、
のように密接に関わっているが、「いじめ」られたよだかの「死」の問題もまた、
私たちに何かを伝えているだろう。
よだかの「死」は何を意味するのか。
 参加者からは、大きく分けて2つの意見が出た。
よだかは初めから死を望んでいたのではない。
太陽や星に救いを求めて、断られて死に向かう。
それは苦しさから逃れるための救済としての「死」だった、
という意見と、逆に、自ら選んだ、決然と意志を表示したものなのだ、
という意見である。
 よだかが死に向かうきっかけとなった、その太陽や星に断られる
という出来事にも、興味深い意見があった。
太陽や星は、上にあるもの、尊い存在だといえ、
それらに頼るよだかの姿は、上に頼ろうとする日本人全体の
メンタリティを象徴しているようである。
また、絶対的な存在を仰ぐ宗教観のようでもある。
しかしよだかは、四方にあるそれらに拒まれてしまった。
四面楚歌になれば進めるのは真上しかない。
だからよだかは真上に進んだ。
そして、依存から自らの意志を発揮したのだ。
そのような意見もあった。
 「死」がすべての解決なのか、よだかが死ぬと、
今度はまた別の生き物がいじめに遇うのではないか、
そんな、残った者に目を向ける意見もあった。
その点でも、『よだかの星』に描かれた「死」という結末は、
宮沢賢治最期の作品『銀河鉄道の夜』に描かれた「死」にも通じるかもしれない。
よだかの「死」からは、作者宮沢賢治が模索し続けた思想の一端がみえてくる。
「今でもまだ燃えています」という最後の一文は、童話らしい終り方と同時に、
賢治の思いも込められている。それぞれの意見から、
参加者各々がよだかの「死」について考えを膨らませることができた。

 読書会2週目には、三田村先生も来られ、同じ「いじめ」のテーマがみえる
『猫の事務所』と『よだかの星』との比較となった。『よだかの星』での
「いじめ」問題、ジェンダーの問題、アイデンティティの問題、
この3点を中心に思い返しつつ話し合いは進んだ。
 ジェンダーとアイデンティティの問題は、今回の話し合いで
より深めることができた。
まず、諸橋先生ご専門のジェンダーの問題だが、ここでは賢治の作品における
男性性の強さについて考えた。『よだかの星』ではめじろ以外の鳥が皆男性的だ、
という先生のご指摘にはじまり、頼るものも太陽・星と男性的存在だという意見、
女性的存在の月には頼らない、という意見がでた。
 そして『猫の事務所』では、明らかに男性社会が舞台である。
最後に物語を終わらせる「獅子」は、男性的ヒエラルキーの
頂点に立つもののようだ。
頼る者、絶対的存在が男性であるという作品世界の在り方は、
賢治の思想だったのか、象徴的に描こうとしたことなのか、
意見はまとまらなかった。
だが、晩年作『銀河鉄道の夜』で男性とも女性ともとれる
カムパネルラが登場することを考えると、このジェンダーの問題は
今後も考えていかなければならないと思われた。
 次に、アイデンティティの問題である。
よだかは、鷹に名前を変えるよう要求され、それを拒む。
名前がすなわち彼のアイデンティティだからである。
話し合いでは、作品に登場するその「名前」に、
どんなアイデンティティの問題が含まれているのか、を考えた。
 そこで、鷹が提案する「市蔵」は、人の仲間であり、
鳥の仲間でないことを意味するから笑われるのではないか、
という意見がでた。
名前には一存在であるというアイデンティティと、
何かの属であるというアイデンティティがあると考えられるのだ。
「よだか」は「夜」「鷹」から成るアイデンティティ不安定な名前だが、
そこには「鳥の仲間」という同一性があった。
同一性をゆるがされること、その恐ろしさも『よだかの星』のテーマである。
 『猫の事務所』における名前、「釜猫」や「黒猫」はその同一性を表す。
だがこちらの場合、それは同一であるからこそ問題となる。
四番書記の釜猫は「釜猫」という分類がなされるためにいじめられるのだ。
名前というアイデンティティの問題は、最初に取り上げた
「いじめ」の問題につながってくることがわかる。
 『猫の事務所』話し合いで最後に話題となったのは、
やはりこの「いじめ」問題だった。
 『よだかの星』では、同一性を剥奪され、
仲間でないことをいじめの理由とする。
一方『猫の事務所』では、いじめられる分類の仲間であることを理由とする。
形は違えど、そこに仲間、つまり「集団」という枠があり、
いじめられる存在はつくられるのだ。
獅子はその枠である、事務所を壊す。
だがその結末についても問題がある。
「枠の外にもまた獅子という権力がある。つまり外にもまた枠があって、
これはとりあえず落とし前を獅子につけてもらったのだ」、
そんな意見があった。
見逃してはならないのは、そのことだろう。
 私たちは、作品に描かれた「いじめ」を中心に考えてきた。
そして見えたのは、いじめられる存在をつくる、社会という枠があることである。
それは階層を為し、様々な問題を生み出している。
作品はそのことを象徴的に描きながら、そこから抜け出す方法を模索する。
最後に、作者宮沢賢治は何を最良の方法と見たのだろう。
それを考えることが、今回読書会によって私たちの得た課題だった。

作成:日本文学科1年 平石涼子
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