フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
43-2・本を読んで考えたこと〜随想コンクール結果発表-2
2007年7月31日発行読書運動通信第43号掲載記事5件中2件目
特集1:随想コンクール結果発表
特集2:前期のまとめ
*この記事は1-4まであります
第1席 山崎愛実 コミュニケーション学科1年
「『ニートって言うな!』を読んで考えたこと〜じゃあ何て言えばいいの!」
表題は、私が本書のタイトルを見て率直に思ったことだ。
しかし、その私の問いに対する答えは本書からは返ってこなかった。
その代わり、こんなことを教えてくれた。
『しばらくすると、まちがいなくニートという言葉は消えていきます』。

 第1部で、私は恥じた。ニートがニートのままである原因は、
若者自身や家庭のせいだけではないのに、そのように定義し、
そう思い込んでいた私たちを。
 今現在ニートは、その態度と存在から、大衆の憎悪と不安の標的にされている。
私もまた、快くは思っていなかった。しかし本書を通して、その原因となっていたのは
私たち、ニートを間接的にしか知らない第三者であったことを知り、深く反省した。
その証拠として、ニート以前に注目されていたフリーター問題などに対して、
日本も2003年には『若年就労問題の最大の要因はやはり労働需要側にあるという
認識が地歩を得つつあった』にもかかわらず、2004年、「ニート」という言葉が
日本に導入された途端、就労問題を抱える若者に対し「働こうとしていない本人が悪い」
という非常にネガティブなイメージが蔓延し始めた、という事実がある。
 これには大きなショックを受けた。何だ、私たちは結局、流行にのせられていた
だけではないかと日本人のあまりに影響されやすい性質を悔んだ。
その物珍しさから私たちは、明確な知識もないまま「ニート」という言葉を濫用した。
その結果が今だ。今、「2007年問題」と懸念された2007年を迎え、団塊の世代が
一斉退職を始めるというのに、若者のそれ相応の就労は期待できない状態にある。
履歴書に空白期間があるから「ニート」、ニートは「怠け者」。
こんな概念を植えつけたのはニートそのものではなく、「ニート」という言葉に
過剰反応した私たちだったのだ。私たちはニートを迷惑がるどころか、
ニートに迷惑をかけていた。
 第1部ではそういった、既に出来上がってしまったニートに対する偏見、
今後予想される就労問題に対し、「職業能力」で対抗しようという考えが
挙げられている。例えば、学校の専門化を強化し在学中に職業的意義をもたせるも
の。 就職活動は職業能力を持たない在学中に行うのではなく、卒業してから一定期間を設け、
その期間で自分に合った職業を見出すというものである。
私はこの案に賛成である。何故なら私は以前から、大学3年生の後期からは
就職活動という、事前すぎる事前準備に大きな不満を抱いていたからだ。
4年制大学に入学するからには4年間きっちり学びたい、というのが
正直な思いであったし、今もその思いは変わらない。また、高校の専門化については、
現在日本の高校生の4分の3が普通科に在学していることで進路、就職への不安や、
明確な夢を見つけられないなどの問題解決にも繋がると思い肯定する。
これは実際、私も普通科在学中に友人の間でよく耳にした話題であったからだ。
次に、学校と企業における信頼関係による学校経由の就職を減らすという案だ。
これには、あまり効果がないと思うのだが、本文の『誰かがうまくいっているうちは、
うまくいっていない人は単に例外的な層としか扱われず、放置され』るという言葉には
共感した。こういった制度で、就職に格差が出てしまうのに、確かに私たちは
うまくいっている例しか知らされないからだ。しかし、これは在学中の個人の
業績によるものでもあるので、一概にそういう「ニート候補者」を庇うことは
できないのも事実である。
また、ここで私が最も興味をもったのは、ドイツの「デュアルシステム」という
制度についてである。これは従弟制のような訓練制度で、長期にわたる専門的訓練を
受けるとういうものである。しかしドイツでは、専門職を長い間学んだからといって、
その職だけに進路を絞るような考え方はしないという。一方で日本人は、
例えば高校で専門科目を学んだら、その科目の進路にしか進めないと思い込む傾向が
強い。それゆえに普通科を選ぶ者も少なくなく、私も同様の理由から普通科を
選んでいたため、身をもって日本人の固定観念払拭の必要性を知った。
 このように、第1部を読んで、私は「ニート」という言葉がここまで話題になった
背景に、特に日本人特有の考え方が影響していたと考える。それは若者自身や企業の
問題も踏まえた上で、何より2004年以降の「ニート」という言葉に対する人々の、
あまりの態度の変化に思わず言葉を失ったからだ。そうして私たち自身で大きな問題に、
それも大変捻くれた方法で発展させてしまったというのに、『「ニート」という
適切でない概念を持ち出して、若者自身やその家庭に責任を押し付け』るのは、
同じ社会に生きるものとして恥ずべきことであると実感した。

 第2部で、私は気付いた。マスコミによって、都合よく洗脳され、若者だけに
重点を置いている私たちに。
 「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」と発言したのが青少年だから、
神戸連続殺傷事件や黒磯市の女性教員刺殺事件の犯人が青少年だから、
青少年は「凶悪化」し、「キレる若者」が急増した。極めつけに、2004年の
佐世保で起きた小6女児による同級生殺害事件にみられるように、
今の「子どもが変だ」。これらは日本をかけめぐるキャッチフレーズとなった。
そうして世間が青少年を悪者に仕立てあげる様子を青少年側から見ていた私は、
素直に疑問に思っていた。いや、そんなの、一部のやつだけだろ、と。
それに、様々な資料が物語るように、青少年の事件は確実に減ってきている。
だが世間はそれを認めず、『何か大きな事件が起こると、それを「現代社会の病理」
として捉えるようなしくみができてしまっている』のには、甚だ迷惑としか
言いようがない。若いというだけで、不審感をもたれ、疑いをかけられ、警戒される。
今の青少年は、マスコミからの情報で判断されているといっても過言ではない。
 もしそれに意義を唱えるなら、本書の169ページから170ページを読んでみてほしい。
すると、本当に凶悪化したのは誰かがわかってくるはずだ。少なくとも私は、
それは青少年ではないと確信している。そこに書かれている、本当に問題視される
べきなのは『何歳の人が、人を殺した』ことではなく、『人が人を殺した』ことで
あるという言葉に、納得しない人など果たしているのだろうか。
 以上のことは、ニート問題においても本質が無視されているという根拠となるだろう。
同様に、私たちが本質でなく話題性だけで青少年を判断していたことも認めざるを
得ない。それは私たち青少年側からすれば、今現在青少年でない人たちに特に
真摯に受け止めてもらいたい。
 『社会問題にすべきは若者ではなく、若者を問題化する社会的勢力とその悪影響』
であると主張するのは、そんなにも偉そうで、理解しがたいことなのだろうか。

第3部で、私は確信した。「ニート」という言葉は要らない。
世間の、「自立しない若者」への苛立ちは以前から存在していた。
「パラサイト・シングル」、「ひきこもり」などという言葉がそうだ。
私はこれらの、特に後者の言葉を目にした際、単純に懐かしいと感じた。
恐らく、私と同じ考えの人も少なくないだろう。これはつまり、「ニート」も
流行のひとつに過ぎないということではないだろうか。
『多くの「ニート」論が、単に巷の青少年問題言説の焼き直しでしかなくなっている』、
『多くの人が、「ニート」を単なる「今時の若者」論の延長上にしか考えていないし、
そのような形で展開されている言説が多い』とあるように、私たちは、今までも
今現在も、何かしらの「言葉」に対する言及を続けている。
つまり、それが何であっても非難の矛先にさえなれば、何の問題もないわけだ。
それゆえに、ひと昔前には「ひきこもり」、ふた昔前には「パラサイト・シングル」
という言葉が存在していた。「ニート」は、それを引き継いだに過ぎないといえる。
「ニート」という言葉の本来の意味は、「15歳〜34歳で、就業もしていなければ
教育も受けておらず、また求職活動もしていない若年層」である。
しかしこれはあくまでも日本における定義で、この言葉が生まれたイギリスでは
本来「失業者や不安定な就労状態の、16歳〜18歳の若者」のみを意味するという。
そもそも、日本以外の国では「NEET」という言葉はほとんど使われていないのに、
日本だけが、「ニート主婦」やら、「ニート化する社会」などと、本来の意味で
考えれば意味不明な単語を一般人のみならず、様々な分野の著名人までもが濫用、
誤用を止めないのはあまりに見苦しい。こんなことでは世間どころか、
世界に笑われてしまう。
日本においての「ニート」はその本来の意味も問題点も無視されながら、
一人歩きを始めてしまっている。「ニート」の中にもタイプがあり求職型、非求職型、
非希望型、そんなことは議題にさえあがらず、「ニートという言葉」に支配され、
もはや「ニート」が「ニート」である必要性は感じられない。「ニート」が
「トーニ」になったとしても、誰もそれを指摘しないだろう。
現に、「パラサイト・シングル」が「ニート」になったところで、言葉が変わった
だけで結局は若者に対するバッシングの対象という点では何も変わらなかったのだ。
「ニート」という言葉は要らない、それは正確に言えば、ニート「に続く」言葉は
要らないということだ。

『「ニート」という言葉自体がバッシングの免罪符』。私が本書を読んで
最も強く印象に残った言葉である。人々は自分の不満を述べる権利を得るために、
必死になって「ニート」という言葉に縋り付いていただけだったのだ。
免罪符の運命は、言うまでもない。
従って、本書を読んだ私は、今後一切「ニート」とは言わないし、代わりの言葉も
探さない。『しばらくすると、まちがいなくニートという言葉は消えていきます』から。
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