フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
43-2・本を読んで考えたこと〜随想コンクール結果発表-3
2007年7月31日発行読書運動通信第43号掲載記事5件中2件目
特集1:随想コンクール結果発表
特集2:前期のまとめ
*この記事は1-4まであります
次席 山田悦子 国際交流学科4年  『下流志向』を読んで考えたこと〜そして大人は?
 子どもたちが学びから逃走している。
なるほど、子どもは学びから逃走しているらしい、つまり学ぶことを拒否していると
言うことである。これを最初に読んだ私の考えとしては、学びから逃げることも
重要ではないかと言う考えであった。学びから逃げること、それが重要であると
考えるのは、かつて高校時代の私が逃げたかったことに起因していると感じる。
私は逃走を試みたが失敗したのである。なぜ、逃げたかったのか?
断っておくが、その当時の私にはちゃんと将来こうなりたいと言う目標を持って、
高校に入学し、それが勉強したくて高校を選んだつもりであった。
しかしである、その学校で私が望んでいた勉強は与えられなかった。
ひたすら、座学のとても受身的な勉強であり、楽しくなかった。
なので、私は逃走を試みたが、できなかった。なぜなら、著者が指摘していた
勉強による効果をなんとなく知っていたからである。それは未来を切り開くものであり、
高校合格はその結果でもあった。しかし、いざその結果を体験してみると、
なんとも面白みのない授業が待っていた。そして、逃走に失敗し、体調を壊してまで
勉強をする日々が続いたのである。このような私の経験から、著者の述べる
学びから逃走する今の子どもを、ある意味で尊敬する一方で、著書と同様の危機感を
覚えるが、それと同時に、怒りを覚えてくる。学びから逃走する子ども……。
この要因は、子どもが消費主体という意識が強くなってしまった結果、またその要因は
今の社会にある、そしてそれはけしからん……。
由々しき自体であることは理解できるが、子どもを非難する一方で、大人への
批判は見られない。ただただ、子どもとは違う立場つまり、大人の視点に立つことで
今の問題を告発している。それは納得できる。しかし、ただただ批判を繰り返すだけで、
ではこうしよう、また、この問題の根本を言い当てていない、見ようとしていない
印象を受ける。
以上のように、読後感は、共感はするが、それと同じように反発もするという
ものであった。以下では、私が何に反発に共感したのかについて述べていくことにする。

 一つ目の反発はそもそもなぜ、子どもたちは逃走するのかということである。
なぜこのような疑問を持つのかというと、子どもが消費主体のように授業を受ける
親は、かつて学びをありのままに受け止めた子どもであった。その子どもが当然
消費主体となり、学びの価値を値踏みしだした。ある日突然、変異が起こり
子どもが変わったという印象を受ける。しかし、子どもには罪がないのである、
罪があり、改めるべきものは大人である。子どもには責任がない、それを逃走するのは
悪いといって、今の子どもを批判するのはおかしい。つまり、なぜ逃走する
事態になったのかを考えなければならない。消費主体を使い、その理由を
説明できるほど、物事は明確ではない。なぜなら、消費主体である前に、
子どもは誰でも母語をなんの抵抗なく学ぶと言うことを指摘していたが、
そんな子どもがどのような経過を経て消費主体となるかはここでは明確ではない。
しかし、著書は教育の崩壊は子どもの価値の変化によってもたらされているとして。
つまり、逃走することで教育を変えた張本人は子どもである。
と言う風に、子どもに問題を押し付けている。

   また、二つ目の疑問は子どもが発する無為はノイズや無意味であるのか
ということである。学ぶ価値がなければ学ばないと言う行為は自らの世界を縮める。
これは同感である。しかし、子どもからの「これはなんの役に立つの?」
と言う質問が、実は子どもの消費主体的な価値からくる意味ではなく、
教師や先生と意見を交わしたいと思うシグナルであれば、以上のように
受け取ることは、そう解釈した側のコミュニケーションの失敗ではないだろうか。
師を持っていることが重要であると言及しているが、今の状況を説明すると、
師をもてない状況までに社会が低下したと言うことが言えるのではないだろうか。
尊敬できる大人が居ないそれが子どもや若者の無為を生んでいる理由ではないだろうか。
つまり、筆者が子どもの無為を批判していたが、それもノイズではなく子どもからの
シグナルではないだろうかという事である。私はそう考える。では、それをどう
改善していくのか、本書を読んだ以上は得られなかった。

 しかし、一方で共感する部分もあったのも確かである。それは労働についてであるが、
転職を繰り返すことによって、自らの階層を下げているという点である。これは、
私に中学生の私が部活について思っていたことを喚起させた。中学時代はほぼ多くの
生徒が部活動に専念していたが、そこから退部すると言うことはやや、中学校という
社会において、そこでの反社会的な行為に私の目には映っていた。つまり、部活を
していた生徒は、がんばっているやる気のある生徒に見えるが、退部した生徒には
なにかしらマイナスな評価が付きまとうと言う印象が当時の私の考えにはあった。
そして退部したということは、つまり何かの理由でやめた、つまり逃げたという風に
目に映ったのである。その逃走を正当化するために今後、自分に不利になるであろう
ことは、今回の例になって逃げるという方法を学んだ、そんな人には一生逃げる癖が
ついてきて、良い人生は送れないのではないのではか。以上が当時の私の考えである。
しかし、これは大間違いで、そこには人間は変わるということを私は、見落としていた。
つまり、最も言いたいことは、逃走した人も、いま逃走している人も変わるという
可能性を持っているのである。その変化は良い、悪いは判断しがたい。
それは個人の判断に委ねるしかないが、その変わろうとしている人々に対して、
ただ批判を送っても意味がないというのが、今の私の考えである。

 また、子どもの逃走と同じように、若者の労働からの逃走についても考える点がある。
それは、労働からの逃走は弱者からの悲鳴ではないだろうかという事である。
フリーターの問題を見てみると、余りにも労働環境や雇用環境が悪すぎる例も
近年出てきた。それを考慮して、彼ら、彼女らの逃走を見ると、それは私にとっては
悲鳴と映る。それをただただ、消費主体であることからの価値の相違による逃走と
解釈するのは強者の見方ではないだろうか。

以上の点から、私が言いたいことは、逃走することは悪いことではないと言うことを
主張したい。著者は売春する人に対してどうにかしたという気持ちがいまの逃走する
子どもや若者をどうにかしようとする気持ちに似ているといっていたが、
彼ら、彼女らの逃走は悪ではないのである。しかし、筆者は悪と認識しているのでは
ないだろうか。しかし一方で、著者は主張しつつも最後の部分では自らの展望を
述べていたのでそれに対しては期待する。
全体的に思うことは、今の社会自体が下流志向ではないだろうかということである。
よって、その下流の現象を学校の子どもや若者の逃走にだけ注目して、
彼らは間違っていることを主張してもこの下流は加速するだけではないだろうかと
考える。つまり、下流志向は社会にまで浸透しているので、そうすると大人は
何から逃亡しているのか、私はぜひ知りたいのである。下流志向はすべての人々が
学ぶことや労働の意味を見失っていることである。しかし筆者は、なぜか子どもや
若者に注目し彼らの逃走を批判している。ぜひ、大人の学びからの逃走も
論じてほしいものである。
Copyright(c) 2000-2006, Ferris University Library. All Rights Reserved.