フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
■ 43-2・本を読んで考えたこと〜随想コンクール結果発表-4
2007年7月31日発行読書運動通信第43号掲載記事5件中2件目
特集1:随想コンクール結果発表
特集2:前期のまとめ
*この記事は1-4まであります
第3席 菅田久美子 国際交流学科4年   『下流志向』を読んで考えたこと〜学ばない、働かないという選択
ここにふたつの命題があるとする。
� 弔△訖佑�「何か」になるとき、その人はそれになりたくてなるのだろうか。
それとも周りの環境によって、ならされるのだろうか。また、
�◆弔△訖佑�何か行動を起こすとき、その人はそれを行いたくてするのだろうか。
それとも周りの環境がそうさせるのだろうか。
 ――この問いに対する回答を、内田樹氏はその著書
『下流志向 〜学ばない子どもたち/働かない若者たち〜』の中で、
次のように述べている。

 「学ばないこどもたちは『学ぶことに消極的』なのではなく
『学ばないことに積極的』なのであり、働かない若者たち(いわゆる『ニート』)は
『働く意思が弱い』のではなく、『働かない、という固い意思』を持っており、
積極的に「ニートという職業」を選択している。ただし、彼らはそう考えざるを
得なくなるような環境下に置かれており、その環境を作り出したのは彼らの
親の世代ではないだろうか(概略)」

何度かどこかで目にしたり、耳にしたことがあるような見解ではある。
恐らく実際にTVやラジオ、雑誌や新聞などでそのようなことが
述べられていたのだろう。もしかするとこれと同様の意見を持つ人が
<大多数なのかも知れない。
 それでは私自身はどのような意見を持ってこの問いに答えるのだろうか。
正直な話、恥ずかしながらこれまでほとんどそういったことを考えずに
過ごしてきたので、現状としてはそれらに対する明確な回答は持ち合わせていない。
今回はいい機会なので、書き進めながらそれについて考えてみたいと思う。
 まず私自身はどうだろうか?なりたいものになっており、それになるために
自分自身の意思で努力してきただろうか?
例えば、私は現在、本学で「大学生」という身分についているが、これは私が
「なりたくて」なったのであろうか?これには自分自身では「YES」と
回答することができる。「今日び大学くらい出ておかないと」という周囲の意見も
もちろんあるにはあった。しかし私には元々どうしても学びたいことがあり、
それ自身とそれを学ぶための周辺知識を入手するために、
そういった周囲の意見を考慮するまでもなく進学の意思はあったのである。
ちなみに本学以外にも「大学生」になれる学校はあったのだが、
取捨選択(これは経済的・学力的事情を加味し、自分自身の『意思』で行なった)
の結果、本学に籍を置くようになった。
では、そのために最大限の努力をしたのであろうか? この自問には
「YES、ただし条件付き」と回答せざるを得ない。本学の入学試験に合格するため、
としては最大限の努力を行なったと言い切ることができる。
ただしかし、前段落でも述べたが、本学に籍を置くにあたり、いくつかの
取捨選択を行なった。その際に選択判断基準となったもののひとつに
「自分自身の学力」がある。単純に「大学生になる」という目的だけを考えれば、
例えば「日本の首都名を冠する学校」や「立憲改進党を結成した人物が創立した学校」
でもよかったのだが、そこの入学試験に合格するためには、寝食を惜しんで
学習しなければならなかった。ただそこまでの努力をする気持ちにはなれず、
またそれを実施したりもしなかった(これは内田氏の述べる
「『不快貨幣』の等価交換」にあたるのであろうか?)ので、その点では
「最大限の努力を行なった」と言い切ることはできない。
ただし、繰り返すようだが、本学の入試に合格するための努力、という点では
「最大限の努力を行なった」と言い切ることができる。
では、そのための努力は自分自身の意思によってなされたものだったろうか?
これに対しても堂々と「YES」と答えることができる。本学入学を目標に
定めたのが自分自身の選択であったため、その目標完遂のための努力は
自分自身の意思で行うことができた。これがもし仮に周囲の人間が薦める、
例えば先に挙げた2校などを目標にした場合など、かなり無茶な努力を
必要とするのであれば、それはあくまでも「(他者から)課せられた」ものであっ
て、「自分自身の意思」とは言えなかったのではないかと思われる。
――以上、私自身に関する自問自答で出せた、冒頭の命題に対する回答は
� 帖屬覆蠅燭�て」なる。
�◆帖峭圓い燭�て」する。もし周囲の環境がそれを「させる」のであれば、
その環境は自分自身が「好んで作り出した環境」である。
ということになる。
 ただしこの回答はあくまでも私自身、しかも大学進学に対する事象だけで
考えたものであり、極端な例を出せば、貧困な地域に生まれたがために意に
反する行動をとらざるを得ない場合や、今まさに自分自身に迫った危険を
回避するためにとった行動などに関しては触れていない。そこまで極端な
例ではなくても、体力が弱くてスポーツができない場合や、子どもがいるから
離婚しない、などについても同様に、私の狭い事象から導き出した回答で軽々しく
触れるわけにはいかない。
 私たちの世代は教育を受けることが当たり前になりすぎて、その大切さや
ありがたみがわからない。「何で学校に行かなきゃいけないの?」
「この勉強は何の役に立つの?と思ったことは、おそらく多くの人に
覚えがあるはずだ。自分の苦手科目を前にした時に
「どうせこんなの役に立たないし」という理由をつけて勉強を放棄するというのは、
恥ずかしながら私にも経験がある。役に立つからする、役に立たないからしない。
この考え方は内田氏の指摘するように、一昔前には見られなかったであろうと私も思う。
平和な国の平和な時代に生まれ、欲しいものは何でも手に入り、
食べ物に困ることもないし、命の危険にさらされるようなこともない。
「学校に行きたくても行けない子どもが世界中にこんなにいるんだよ」
と学校で教えられても「いいじゃん。代わって欲しいよ。」と言い出す始末。
そもそも勉強を、役に立つ、立たないで考えられること自体が幸せだというのに、
そのことに全く気付かない。働きたくても仕事がないという人は世界中で
数え切れないぐらいいるというのに、日本のニートは仕事があるのに�狷�かない��
という選択をしている。本来ならどの仕事にするかという選択になるはずなのに、
働く・働かないという選択から始まってしまっている。私たちは恵まれすぎた
環境に育ってきたせいで、どこか傲慢で無神経というか非常識というか、
そういったところがあるのではないだろうか。学ばない子どもたち、
働かない若者たちは、自分でそのような選択をしたにしろ、環境がそうさせたにしろ、
なぜ学ばなくてもまたは働かなくてもやっていけるのかをよく考えてみて欲しい。
そして親たちはなぜ自分の子どもがそのような選択をするに至ったのかを
考えてみて欲しいと思う。自分も学ぶことに傲慢になっていたのに、
なんだか偉そうなことを書いてしまったが、自分自身への反省をこめて
述べたまでである。
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