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2003年6月19日発行『読書運動通信5号』掲載記事4件中4件目
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居酒屋で聞いたこと
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5、6年前のこと。居酒屋で飲んでいたとき、ある人が「おもしろい小説が
読みたいなあ」とつぶやいた。すると、すかさず傍にいた某氏が「宮部みゆきの
『火車』を読め!」とすすめていた。そのときまで、私は「宮部みゆき」の
小説を読んだことがなかったのだが、某氏が叫んだ『火車』というタイトルが
妙に耳に残っていた。その後、早速書店で買い求め、読み始めたら、もう止まら
なかった。
『火車』とは、『大智度論』の「地、自然に破裂し、火車来迎し、生きて地獄に
入る」に拠る。罪をおかしたために、生きながら地獄に落ちる人が乗る車のこと
なのである。激しく燃え盛る炎に包まれた車に乗って、地獄へ落ちてゆく。
恐ろしい光景である。今では、家計が苦しいときに、「わー!今月は火の車
だわー!」などというセリフを吐くが、この「火の車」は「火車」を訓読した
もので、苦しみの中でも経済的困窮に限定して言うようになったことばである。
宮部みゆきの『火車』は、地獄に落ちるような重い罪と借金の苦しみの、
両方の意味を重ねた書名なのだ。「火車」に乗せられるのは、「新城喬子」
という女性である。自分の生い立ちやこれまでの生を全て消し去って、他人に
なりすまそうともがき、罪を犯してゆく。新城喬子は、他人の人生を踏み
にじって、幸せをつかもうとした。それは確かに罪深いことだろう。でも、
この本を読む人は誰もが、彼女の暗い心の闇に引き込まれてゆきそうになる。
ラストシーンで、犯人新城喬子を追い求めて、やっと逮捕寸前に追い詰めた
刑事が、初めて彼女の姿を見て、胸の内でこうつぶやく。「俺は、君に会ったら、
君の話を聞きたいと思っていたのだった。これまで誰も聞いてくれなかった話を。
君がひとりで背負ってきた話を。逃げ惑ってきた月日に。隠れ暮らした月日に。
君がひそかに積み上げてきた話を」。これは、まぎれもなく愛のことばである。
寺山修二が、ボクシングを会話に擬したように、この刑事は、犯人と長いあいだ、
対話を続けてきたのだった。
その後、『理由』『模倣犯』など、話題作を書き続けている宮部みゆきであるが、
私にとっての宮部みゆきナンバー1は、今でもやはり『火車』である。
みなさんはいかが?
(文学部教授 谷知子)
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