フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
06-2・「詩」の言葉にたたずむ
2003年6月30日発行『読書運動通信6号』掲載記事3件中2件目
 じめじめしたうっとうしい天気が続きます。体調を崩された方も
わたしの周囲にたくさんいます。お互いに自愛しましょう。
 就職活動も教育実習の方も介護体験の方もそれぞれ貴重な体験を
積み重ねているようですが、その分、目に見えない疲れもたまって
いることでしょう。ここらへんでたちどまり、すこしゆっくり自分
を振り返ってみるのもいいかもしれません。
 わたしは誰よりもせっかちで、いつも廊下を走り、階段を駆け下り、
息切れして毎日を過ごしています。「本」もまたあわただしく駆け抜け
るように読むのが常で、じっくりと丁寧に読むことは普段まったくでき
ませんが、詩を読む時だけ、すこし呼吸をゆっくりしている自分に気
づきます。1週間に1度、1月に1度というスローペースですが、「詩」を、
自分のかさかさの心に「水やり」をする思いで読みます。

 長田弘さんの詩集『一日の終わりの詩集』(みすず書房)から、

魂は
悲しみは、言葉をうつくしくしない。
悲しいときは、黙って、悲しむ。
言葉にならないものが、いつも胸にある。
嘆きが言葉に意味をもたらすことはない。
純粋さは言葉を信じがたいものにする。
激情はけっして言葉を正しくしない。
恨みつらみは言葉をだめにしてしまう。
ひとが誤るのは、いつでも言葉を
過信してだ。きれいな言葉は嘘をつく。
この世を醜くするには、不実な言葉だ。
誰でも、何でもいうことができる。だから、
何をいいうるか、ではない。
何をいいえないか、だ。
銘記する。――
言葉はただそれだけだと思う。
言葉にできない感情は、じっと抱いてゆく、
魂を温めるように。その姿勢のままに、言葉をたもつ。
じぶんのうちに、じぶんの体温のように。

一人の魂はどんな言葉でつくられているか?

 疲れの余り、とげとげしくなって、言わないでもいいことを言ったり、撒き
散らしたりして、自己嫌悪に苛まれるとき、この詩をそっとくちずさんで、鳥
が卵を孕むように「じっと抱いてゆく」そうした言葉の「たもち」方を思うの
です。いつか自然にほぐれて、殻が破られるまで、言葉をしっかりと保ち続け、
溜め続けることで、ささやかな発火と燃焼が可能になるに違いないとわたしも
祈るように信じているからです。
 これはちょっと気恥ずかしい例でしたね。もう1つ、電車の中の老人をうたった
詩を挙げましょう。これも老人になりつつある自分にはしっくりと胸に落ちる詩
です。

新聞を読む人

世界は、長い長い物語に似ていた。
物語には、主人公がいた。困難があり、
悲しみがあった。胸つぶれる思いもした。
途方もない空想を、笑うこともできた。
それから、大団円があり、結末があった。
大事なのは、上手に物語ることだった。
何も変わらないだろうし、すべては
過ぎてゆく。物語はそうだったのだ。

今日わたしたちは、誰にも似ていない。
わたしたちの声は、誰のようでもない。
日々の事実が、日々の真実のようでない。
豊かさが、わたしたちの豊かさのようでない。
喋る。とめどなく。わたしたちはそれだけだ。
わたしたちの不幸は、不幸のようでない。
死さえ、わたしたちの死のようでない。(略)

怖くなるくらい、いまは誰も孤独だとおもう。
新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
ことばを探しているのだ。目が語っていた。
ことばを探しているのだ。手が語っていた。
ことばを、誰もが探しているのだ。
ことばが、読みたいのだ。
ことばというのは、本当は、勇気のことだ。

人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。

 電車の中で携帯の送受信に夢中になっている人には無縁の風景かもしれません。
しかし、携帯に夢中な人も、時には、満たされないもどかしさを訴える遠い目を
することがないわけではないでしょう。そうした言いがたい「飢え」への力強い
メッセージだと思われました。
 この長田弘さんは、詩人であると同時にすぐれたエッセイスト、読書案内人で
もあります。いまの詩の「物語」にも関わりますが、長田弘さんの『読書百遍』
から、「物語とは何か」という問いかけに関わる部分を抜き出してみます。
 『はてしない物語』の場合。バスチアンという少年は、雨の日に、本を読んで
います。その本がじつは「はてしない物語」という本で、夢中になって読み進む
うちに、少年はその本の登場人物がほかでもなく少年自身であることに気がつい
て、ハッとします。もう読むのはやめよう。少年はそうおもうんですが、まさに
そのとき、それまでけっして名を名のらなかった物語のなかの少年が、「すくな
くともじぶんの名まえぐらい名のるものだ」とうながされて、こうこたえるのを
聴いてしまいます。「ぼく、バスチアンといいます」。
 じぶんがじぶんの名でよばれる。そのとき少年にとってほんとうに物語がはじ
まるので、そしてそれからは、物語の主人公となったそれまで何者でもなかった
少年は、じぶんが何者であるかを知るために、じぶんの物語をのっぴきならず生
きなくちゃならなくなります。
 すなわち少年は、すでにはじまっている物語のなかで、じぶんでじぶんの物語
を探しつづけなくちゃならない。それは、べつの言い方をすれば、じぶんの物語
を探しつづける、それが物語なんだということです。
エンデの『はてしない物語』を題材に、「『本』には1人のわたしが果たして
きた、あるいは果たすことのできなかった『すること』の夢が埋まっている」
と長田さんは言います。それぞれの人がそれぞれの人生を見事な「物語」として
所有・完結するために、「物語」の冒険は必要とされているのでしょう。
(文学部教授 三田村雅子)
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