フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
2004年度16-2・先生方の一冊〜コミュニケーション学科設立記念 諸橋先生大特集-2 
掲2004年5月17日発行読書運動通信16号掲載記事4件中2件目
特集:先生方の一冊〜コミュニケーション学科設立記念 諸橋先生大特集!
*この記事は1-5まであります。
読書遍歴、あるいは本との関係
日本の現代文学に目ざめる60年代後半
文学的には割と早熟だった。
その後小学校4年生くらいから、ドストエフスキーの『罪と罰』
(手塚治虫のマンガの影響だ)、三島由紀夫(もちろん『潮騒』のレベルで、
『仮面の告白』はさっぱりわからなかった)、さらにろくに読めもしないのに、
60年代後半という時代風潮もあって安部公房や大江健三郎、開高健、
また小田実、柴田翔、高橋和巳、倉橋由美子、それに野坂昭如などの名を挙げる、
今から思えばかなり生意気なガキだった。
ご多分にもれず小学校低学年の頃まではアトムと鉄人を足して割ったような
「大長編」マンガも描いていたが、この頃から志望はそれまでの
「マンガ家か科学者」から、「新聞記者か小説家」になっており、
いっぱしにシナリオを書いたり、手書き新聞を出したりしておとなに見せたり
近所の上級生に見せたりしていた。
小学校5年生から大学生による家庭教師がついたのだが、その影響も小さくなかった。
彼らは、鉄道模型やラジオ制作、反戦フォークソングなどを教えてくれ、
そういったおとなっぽいサブカルチャー・趣味・文化の存在、ラジオや鉄道や
フォークソングなどの専門雑誌の存在が、「大学」という「知の世界」や
「おとなの世界」を知らしめてくれた。
大江や高橋の名を挙げてはいたものの、だが実際に小学校5、6年生の頃に
暗記するほど読んだのは、井上靖の『しろばんば』とその続編『夏草冬濤』だった。
主人公伊上洪作の中学受験に自分をダブらせ(しろばんば)、旧制の中学生の
おとなっぽい生活や会話(夏草冬濤)に憧れてのことだ。
 同時期には北杜夫のエッセイ「マンボウもの」にもハマり、
特に『どくとるマンボウ航海記』が大好きだった。直後の小6の時に、
旧制高校の疾風怒濤時代をつづる『どくとるマンボウ青春記』が
ベストセラーになったが、『青春記』よりも当時は『航海記』の方が
面白かったのだから、やはり幼かったのだろう。大江の『個人的な体験』
『性的人間』、柴田の『されどわれらが日々−』なども、字づらは追えるものの
小学5、6年生には何やら難しいハナシで、あまり冒険譚でもないため
(何となくエッチな雰囲気だけはわかったのだが)、むしろ開高の『パニック』や
『裸の王様』がわかりやすかった。大江には「青年」ものがタイトルに多かったので、
『孤独な青年の休暇』『青年の汚名』『われらの時代』など初期作品に
取り組もうとしたが、石原慎太郎『青年の樹』の方がはるかに面白かった
(そりゃそうだ)。ただ、のちに中学に入ってから再チャレンジした
『遅れてきた青年』だけは、後半が割と活劇が多く、「青年」ぽかった。
 『万延元年のフットボール』『憂鬱なる党派』あたりになると、当たり前だが
『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』と同様、小学6年生には全くお手上げだった。
にもかかわらず、大江や小田実、高橋和巳の政治的なエッセイを意味もわからず、
つまりカッコをつけて読んで、線なぞ引っ張っていたものだ。
 『帰ってきたヨッパライ』を大ヒットさせた大学生のフォークバンド、
ザ・フォーク・クルセダーズの『イムジン河』発売中止事件も耳に入ってき、
『悲しくてやりきれない』を含む4曲入りのレコード、解散シングルの
『青年は荒野をめざす』などを買ってもらったそんな1969年、
東大の安田講堂の攻防戦が行われ、ぼくはテレビで生中継を観ていた。
東大合格率をほこる私立中学と国立大学付属中学の入試勉強をしていた
真っ最中のことだ。その年は雪の多い年だった。
受験した2校に落ち、公立中学に入った頃には、大江、開高、小田、柴田、高橋、
野坂らに加えて、直木賞で台頭し始めていた五木寛之や井上ひさしなどが
そこに加わり、「好みの作家」はここらで大体固定した感じがある。
生き方、政治的想像力、そして文体に影響を与えたのは、大江、高橋、北、
そして後述する庄司薫だ。小学校高学年には北杜夫と三島の影響で一人称に
「私」を使いだし、それ以外にも北杜夫の文体には随分と影響を受けた。
中学に入ると高橋和巳の漢語調の文体の影響を受け、
また大江のブッキッシュな文体からは強い影響を受けた。
今でもぼくの文章のセンテンスが長いのは、大江からきていると自覚する。
埴谷雄高や吉本隆明らは当時さらに「巨人」の批評家たちだったが、
その影響を受け出すのは、鶴見俊輔、加藤周一、竹内好らとともに
高校に入ってからのことである。
高橋和巳がガンで死んだのは1971年、中学3年の5月であり、
いまのぼくよりはるかに若い39歳だった。筑摩書房から出ていた
『人間にとって』や、『文藝』の追悼特集号を、乏しい小遣いの中から購入した。
ちなみに三島の自決は70年の中2の秋のことで、「とんだ猿芝居だが、
ホントにやるとはカッコイイ」と、あまり意味もわからずはしゃいで
日記に書いたものだった。その時の朝日1面の首が隅に写っている
紙面はまだ取ってある。また川端康成や小林秀雄は、三島と並んで彼の右
翼的な政治的言動もあって好きになれなかった。
もっとも、中3生にとって読みやすく、より重要だったのは、
フォークル解散後も深夜放送のDJなどをやっている医学生・北山修のエッセイ集
『戦争を知らない子供たち』や『さすらい人の子守歌』、学生運動と恋愛に
破れて自死した立命館大学生・高野悦子の日記『二十歳の原点』、
そして同じく学生運動と恋愛の末にブロバリンを呑んだ横浜市大生・奥浩平の
遺稿集『青春の墓標』だったが。
北山は、現在九州大の教員として、メディアや精神病理などぼくのフィールドとも
多少重なる仕事をしている(学術的には彼を批判すべき点も少なくないと感じるが)。
『イムジン河』を含む2001年のフォークル再結成のアルバムは、
9・11を反映した反戦色強いものだった。
柴田翔のおつれ合いとは、フェリスで同僚となり、たまに話をする。
柴田は東大を定年になったのち女子大に勤めているが、
この前エッセイ集を出したそうだ。ぼくが大きな影響を受けた手塚治虫の
そのアシスタント、石坂啓には、今年度からこの大学に非常勤で来てもらっている。
いずれも浅からぬ“縁”を感じる。
 ぼく自身は、新聞をはじめメディアや文化や政治を研究する社会科学者となり、
本も何冊か出して執筆生活をし、日本の現代作家も扱う日本文学科に就職し、
社会的な発言を行い、メディアにも出、学生や聴衆や読者にメッセージを伝えるなど、
当時志望していた新聞記者や科学者や作家・市民運動家を満たしたような仕事を
している。シンガーの夢は破れたが、カラオケや同僚たちとのバンドで人前で
歌ったりもしている。
 60年代後半から70年代にかけて影響を受けた「大学生」や「その周辺」を、
永久にやっているのだと思う。その意味で、小・中学生の頃の「夢」がほとんど
実現してしまった。
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