フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
2004年度16-2・先生方の一冊〜コミュニケーション学科設立記念 諸橋先生大特集-4 
2004年5月17日発行読書運動通信16号掲載記事4件中2件目
特集:先生方の一冊〜コミュニケーション学科設立記念 諸橋先生大特集!
*この記事は1-5まであります。
読書遍歴 あるいは本との関係
文学への夢が破れる、そんな辛い青春時代
こんなていたらくで、大学に受かるわけはない。
高3の受験時期には、国内外の小説からさらに思想書や学術書へエスカレートし、
志望大学の学部で勉強するはずの文学理論、社会学、心理学、政治学、人類学、
ジャーナリズム、社会思想などの本を読みあさって、受験勉強から逃避していた。
おかげで、マックス・ウェーバー、南博、レヴィ=ストロース、マルクス、
エンゲルス、丸山真男、高畠通敏、宮城音弥などの本は書き込みの線だらけになった。
大学院なら受かったかもしれない。
ぼくの希望学部は、人文科学部のようなところで広く心理学や社会学をやりながら
人間や社会をきわめ、文学を「余技」でやるか、さもなければ
政経学部のようなところでもっとコミュニケーションの勉強・研究をすることだった。
相変わらず大学生ミュージシャンデビューや、学生作家も夢見ていた。
しかしながら1975年の3月に高校を卒業したぼくは、
どこにも「所属」のない人間になっていた。
だが、庄司薫の主人公ほどカッコよい存在ではなかった。
76年に発表された村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は、ショックだった。
既に「戦後生まれの作家」のC第1号と喧伝された中上健次が『岬』で
世に出ていたが、群像新人賞に続いて芥川賞を受賞した村上龍が戦後生まれの
芥川賞作家第2号となった。ドラゴンのそれは、ぼくも多少の記憶のある
戦後の「基地の街」の雰囲気に関して「オレでも書ける」という内容にもかかわらず、
しかしドラッグとセックスで荒れた若者たちが不思議にさわやかな印象を与える、
やはりぼくには書けない小説だった。
 当時、20歳になろうとする記念に小説を書いていたが、
むしろルポルタージュや評論の方が向いているようで、すでに大学生になっている
友人たちと出していたミニコミでのぼくの文章は小説よりも好評だった。
一方の詩や小説の投稿への“反応”はさっぱりだった。
77年になっても諦めきれずに音楽関係のオーディションを受けたり
作曲のコンテストに応募したりしていたが、高校時代に多少「いい線」いった程度で
プロになれるはずもない。
一方、その後立て続けに中島梓が評論『文学の輪郭』で群像新人賞を受賞、
さらに栗本薫の筆名で『ぼくらの時代』シリーズを出し、
三田誠広が『僕って何』で芥川賞、高橋三千綱が『九月の空』で芥川賞を受賞し、
団塊世代の早稲田勢が一挙に出てくる。
文学も、音楽も、市民運動や学生運動(学生でもないのに)へのコミットなど、
だんだん自分が思うほどに自分には才能がないことに気づいてゆかざるを得ない、
そんな20歳前後だった。「いまだ実現しない夢の可能性」がたくさんあることが
「若さ」の特権だと庄司薫が書いていたが、その意味で「可能性」が
1つ1つ潰えてゆくこの頃、ぼくの「青春」は終わろうとしていた。
あるいは今でも続いている「長すぎる青春」の始まりだったのかもしれない。
77年に書いた小説で、既に20歳にして「特定の相手」を決めようとしている
「君」に、主人公の「僕」が、「この短すぎる青春を君はなぜ生き急ぐのか、
この長すぎる青春をなぜ僕はぬらりくらりと生きるのか」と
モノローグするシーンがあるが、このフレーズはそのまま当時のぼくの気持ち、
バンド仲間で振り向いてくれなかった好きだった子への
「恨み」も含む周囲への思いでもあった。
Copyright(c) 2000-2006, Ferris University Library. All Rights Reserved.