フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
27-5・ 『ハウルの動く城』から―男と女の〈美しさ〉について
2005年6月27日発行読書運動通信27号掲載記事5件中5件
特集:西村醇子先生講演会
日本文学科卒業生 鈴木夏衣
2004年の秋に公開された、スタジオジブリの最新作『ハウルの動く城』は、
少々異作といえる。元来宮崎駿が得意とするのは「少年少女の冒険活劇」であり、
今までの作品の主人公らはほとんど十代の少年、あるいは少女だった。
しかし今作の主人公は90歳の老婆である。主人公の少女ソフィーが
魔法によって、物語冒頭で90歳の老女へと変えられてしまうのだ。
そして、同じく主人公のハウルが20代の青年であり、
ジブリの男性では珍しいことに美形に描かれている点がこの作品を
異作たらしめている点だろう。
今までのジブリ作品で「美」は特に問題ではなかった。
          先ほど述べたように主題は「冒険」である。「冒険」に「美」は必要ではなく、
「好奇心」や「勇気」こそが必要となるからである。しかし、『ハウル〜』は
恋愛物語である。そこで「美」が必要となるわけだが、
何故女のソフィーではなく、男のハウルに「美」なのだろうか。
主人公のソフィーは何もかも、逆さまな少女である。
少女の時は、老婆のように萎んだ心を持ち、老婆の時、
その心は少女のように若返る。物語の冒頭で、少女のソフィーはただ義務的に
家業を手伝っていた。呪いを受け老婆となり、逃げるように一人になると、
今まで背負ってきたしがらみから開放される。そしてひょんなことから
ハウルの城に住みつく。城はものすごく汚く、居座る理由として、
そして女性的な清潔観念から、「そこを掃除する」と彼女は宣言する。
こうして明確な目的が生まれた時、彼女は俄然、張りきりだすのだ。
それはソフィーが初めて自ら選び、他人に何を言われても頑として
譲らなかった彼女の主張でもある。
一方のハウルは自分の美しさを相当鼻にかけていて、髪の毛の色を染めたり、
着る服に凝ったりと傍から見れば相当に情けない男である。
しかし強い面と同時に弱い面を晒すなど、何となく放っておけない男で、
ソフィーはついつい面倒を見てしまう。その「ハウルを支える」という行為が、
やがて彼女を恋へと踏み立たせるきっかけでもある。
ソフィーの呪いは物語の最後に解けるが、「呪いが解けた」と分かる
明確な瞬間が無い。誰かが呪いを解いたわけでもないし、
呪いをかけた人物を倒したわけでもない。彼女の呪いは「いつの間にか」
解けているのだ。そして解けるまでの間、物語中盤から彼女の姿は
ずっと少女と老婆の間を行き交うのである。ある時には50歳くらいの
姿になっているのに、また90歳に戻る。かと思うと少女にもなる。
しかも周りの人物は誰もそのことを指摘しないのだ。
そのことから考えればそれは彼女の心象風景であるかもしれない。
そうだとすれば呪いはソフィーの心と結ばれていることとなる。
彼女が前向きになればなるほど、その姿は若返り、逆に臆病になれば老いる。
呪いを打ち破ったということは、彼女が今まで心の中に持っていた
「生きることへの臆病さ」をも打ち破ったということになる。
ハウルもまた、その姿は心の有様とともに変化して描かれる。
彼は悪魔と契約しており、そのため強い力を使うことができるが、
その力を使えば使うほど、姿は悪魔に近づき、心は人間さを失うのである。
しかしソフィーと違う点は、ハウルの容貌の変化は顕著で、
周囲もそれに気づくという点である。
それはハウルが「外敵からソフィーを守る」という行動に出始めてからが
特に顕著で、ソフィーを守るため、自身の外見の美をかなぐり捨てた時、
ハウルの心と体は完全に悪魔となる。そしてそのハウルは自分の心に
打ち勝ったソフィーの手で救われることとなるのだ。
今作『ハウルの動く城』で、宮崎駿は男の美と女の美を、
両者の持つ性差的な役割とリンクさせて、〈姿〉と〈心〉、〈外面〉と〈内面〉に
描きわけて、その美しさの意味と限界を問おうとしたのではないだろうか。
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