フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
29・30-4・特集.1 携帯本-3
2005年11月24日発行読書運動通信29・30合併特大号掲載記事16件中4件目
特集:1.携帯本/2・食と文学
お知らせ:1.文部科学省特色GP採択について/2.イベントについて
  
本と乗り物
もともと僕はあまり本を読まない。
何故ならコレだ!と自分の中でヒットをしない活字を読むのが
大変苦痛であるからだ。よって語彙と読解力は未だにお粗末なもので、
日本文学科にあるまじき体たらくである。だから移動中も本を読まない。
そもそも読まないという習慣が身についているし、集中力が
外界の刺激によって分断されるのがまったくもって好ましくない。
本は静かに読みたい。実家に帰って、真面目に谷川俊太郎の愛についての
論文などを読んでいるときに、隣で妹がかのエグザイ…ル?とグレ…イ?
だったかのコラボレーションシングルをラジカセから大音量で
流していたときはさすがにコンセントをひきちぎってやろうかと思った。
やめた。僕は妹が多分好きだし、そしてちょっとだけ我慢強い子だからだ。
結局本は一人でしかも静かなところで読むのが最適だ。
だから電車内などでハードカバーなどを読んでいる人はすごいと思う。
よくぞ読めると。いや、僕が乗り物酔いだとかそういうわけではない。
断じてない。バスの中で文庫本を読んでいる人をたまに見かけるが、
あれはちょっと人間離れした神業だと思う。三半規管が人知を
超えているとしか思えない。いや、僕は乗り物酔いなんかではないんです。
本当です。何の本を読むかで多少違ってくるとは思うが、
僕は市営バスに乗りながらマルクスを読む人を総理大臣より尊敬すると思う。
だが、移動中はやはり物寂しいものだ。なんのために気持ち悪い思いを
してまで本を読むのか、僕には理解しかねるが、やはり移動という
特殊な拘束時間は、足だけにやんわりと錠をかけられているだけの
ものであるがゆえ、瑣末ながらその時間は確かに惜しいかもしれない。
そして僕らはその人生において色味のない瑣末な瞬間に
本という存在で色をつけてゆく。そう、ある人はただの自己満足に、
またある人は全霊を込めて、本は僕らの瑣末な拘束時間を、
延々と流れる窓の外の見慣れた風景というモノクロームから救済するのである。
だとしたら、これは大変意味がありそうに思える。
人生のただ一瞬たりとも逃さんとする前向きな人々のために、 あるいはただ時間を持て余している人々のために、電車は、バスは、
フェリーは、飛行機は、車は、また退屈な時間を彼らに提供する。
そして彼らは不特定多数に送られた英単語や感動を自分で采配した
時間の使い方の中で勝手にかっさらっていくのだ。
大変意味がありそうに思える。ただ、それは彼らが恵まれた
三半規管をもっていて、という注意書きを添えるのだ。
 羨ましくなどない。だが、そのために多少僕の語彙と
読解力の鍛錬が遅れているのは、なんとなく釈然としない。
いやだから、僕は乗り物酔いなどしない。断じて。
乗車すると首がぐらぐらしてくるだけだ。
(日文2年 齋藤のゝゑ)
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