フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
40-6・紹介 私の好きな児童文学・第1回
2007年4月30日発行 読書運動通信40号 掲載記事10件中6件目
特集:1.新年度テーマについて 2.スポーツと文学
紹介:私の好きな児童文学〜第1回
お知らせ:イベント、募集、他
『怪人二十面相』 江戸川 乱歩 著  ポプラ社
横浜市立図書館・神奈川県立図書館 所蔵あり

 子供のころ通っていた鍼灸院の待合室には、大量の本があった。
戦争で失明されたのだというその老先生は、鍼の腕前も確かだったが、
それ以上に博識で、痛くないとはわかっていても、身体に針を刺されることに
怯えきっている七歳の私に、色々なことを話してくださった。
中でも出征先の南方の国の美しさ(つらい思いをされただろうに、
どんなに人が親切で、自然が豊かで海や星空がすばらしかったかしか
話されなかった)と、これまでに読まれた本のおもしろさについてのお話は、
私に恐怖を忘れさせ、空想の世界へ旅立たせるのに充分だった。
先生の蔵書には江戸川乱歩の本がたくさんあった。
その中の、大人の蔵書としてはあまりふさわしくない、
読み込まれてボロボロになった『少年探偵団』シリーズが、
今回の「私の好きな児童文学」である。

乱歩のこの一連の作品は、周知のとおり子ども向けの娯楽作品である。
美術品専門の怪人二十面相を、明智探偵と助手の小林少年率いる
少年探偵団が追いかける、とても痛快な話だ。
シリーズ第1作目の『怪人二十面相』は1936年に『少年倶楽部』に掲載された。
舞台は関東大震災後の東京。変装の名人で、20の顔を持つと言われる
盗賊二十面相が、国立博物館の美術品を盗むと予告してきた。
名探偵一派と怪盗との勝負はいかに!
と概略を陳べるだけで、ワクワクするような冒険探偵小説であることが
おわかりいただけると思う。子ども向けを意識したためだろう、
ミステリー部分でのくだくだしい説明はない。簡潔かつ鋭い推理と心躍る活劇、
先が読めそうで読めない展開に、私は名を呼ばれたことにすら気付かないほど
夢中になった。また、易しい言葉で書かれてはいても、乱歩独特の、
夏の都会の夜風に吹かれたような、耽美的でどこか退廃的な
雰囲気などは健在で、情景が目の前に立ち上がってくるような描写力とあいまって、
大人の読者を魅了するに余りある。
同シリーズ全33作中には、「ありえね〜!(少林サッカー)」と
叫びたくなるような、突飛な扮装やら仕掛けやらで笑わせてくれる、
さしもの乱歩先生もスランプだったのだろうかと疑いたくなるような、
ご都合主義全開の喜劇になってしまっているものもある。
が、二十面相の、自分だけの美術館を作るためという窃盗の目的、
金銭に対する欲求の少なさ、残酷なことに嫌悪を示し、戦争を起し多くの
人を殺した連中が自由の身であることに憤る反戦精神など、
乱歩の人柄が反映された、全体的に気持ちのいいピカレスクロマンである。
1894年生まれの彼は、早稲田大学卒業後、1923年に名作『二銭銅貨』でデビューした。
代表作は『心理試験』『パノラマ島奇談』『陰獣』『幻影城』ほか多数あり、
戦後は、評論による啓蒙や日本推理作家協会の設立に携わるなど、
多大な業績を残した。また新人発掘にも熱心で、1954年には推理作家の
登竜門である江戸川乱歩賞を制定、彼に才能を見出された作家は少なくないという。
また、没後42年経ってもさまざまな版元から全集や文庫本が出版されたり、
舞台化、映画化されたり、果ては同人誌が作られたりと、
いまだに多くのファンをひきつけている作家である。

私は、いつのまにか鍼灸院に通うことが楽しみになっていた。
そこで治療を受けている人はほとんどが大人だったから、『怪人二十面相』は、
こっそり挟んだ栞の位置もそのままに私を待っていてくれたし、
老先生の話はいつも面白かった。
「『うつし世はゆめ よるの夢こそまこと』ってね、乱歩は言っているよ」
と、老先生は教えてくれた。
そのころの私には意味などわからなかったが、どこか淫靡で呪文めいた
その響きは強く印象に残った。
私はそれまで以上に読書に耽溺し、読んだ本のことを、いそいそと
先生に話すようになった。二度と活字を追うことのできない先生は、
それをどんなお気持ちで聞かれただろう。
「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」と言われたときの先生のお気持ちは
いかばかりだったろう!しかも、健康になってきた私は、
何の挨拶もせず通院を止めてしまったのだった。
1998年にポプラ社から『新訂少年探偵江戸川乱歩』全26巻が出版され、
私は全巻揃いを購入した。イラストも書体も、仮名遣いまで違うのに、
この本を手にとると、ほの暗い鍼灸院の待合室と黄ばんだページ、
それから午後の治療室の中、逆光に浮き上がる小柄な、
しかし凛とした老先生のシルエットがあざやかによみがえる。
だからいつでも、それを読み始める前には私は何度もまばたきをしてしまうのだ。
(図書館 鈴木)
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