フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
2005年度を振り返って-5
●読書運動プロジェクト 1年総括   日本文学科2年 齋藤のゝゑ 
昔に比べると、私は本を読まなくなった。読む本の傾向も少しずつ変わっていき、
自然子供の頃毎日のように読んでいたファンタジーの書籍たちとも縁が切れていった。
児童を相手にする職種の方が両親の近くにいくらかいたこともあって、
幼い頃は、家の中にいただいてきた児童向けの本が溢れていたこともあり、
病気がちの私は、共働きの両親がいなくなった後のしんとした家の中、
ただただ本を読み、本と、もっとも親密な関係を築いていた。
その時代が、私の読書の最盛期であり、また同時に、ファンタジーと
触れ合っていた最盛期であった。
あるとき、父の知人から、ハードカバーの『アリーテ姫の冒険』をいただき、
たちまちそれは私を虜にした。毎日、1章か2章分を読むことが日々の課題となり、
読み方も自由奔放に、気に入ったところを繰り返し読んだかと思えば、
最初からきちんと読むこともした。昨日読んだ部分をそっくりそのまま
読んだこともあった。思えば、そういった自由な本の読み方も、
アリーテ姫と心の友達であったその保育園時代においてきてしまったように思う。
アリーテ姫が数々の困難を克服してゆくさま、そしてもっとも恐ろしいものが
「退屈」であるという、子供向けのファンタジーにしてはひねった題材が
私を捕らえて放さなかった。幼心に、聡明な彼女への大きな憧れを抱いていた。
 私たちがいくら望もうと、1杯そこからすくえば、もうその器からは水の絶えない
井戸も、病気を治すことのできるルビーもないわけだが、幼い私たちにははっきりと、
登場人物たちの息遣いが聞こえていたし、その一部始終を、息を潜めてかたわらで
見ていた。そこには本当に生きて、動いている人々がいた。
ファンタジーが、どれほどリアリティーを欠く設定であったとしても、
もし我々が望んで彼らに添おうとすれば、ノンフィクションにだってなった。
幼い私の心には、何一つ矛盾はなかったはずなのに、今、よほど娯楽的なもので
なければファンタジーに触れようとすら思わない。
ファンタジーというカテゴリは私の読書の芽生えであったわけだけれども、
一体、1度でも私はその事実を深く考えたことがあっただろうか。
感受性豊かな過去のあの時期に、ファンタジーを読むことが私をどう変えてくれたのか。
いずれ完全にファンタジーと切れるだろうと思っていた19歳の私を、2005年度の、
読書運動プロジェクトのテーマが再び、あの時期に感じた高揚感を忘れないよう、
引き戻してくれたのかもしれない。あの頃の、「本って面白い!」
という純粋な気持ちが、今、陳列された本棚の背表紙に手をかける原動力の
深いところに、確実に残っているのではあるまいか。
『アリーテ姫の冒険』が、今読んでも面白い名著であることに、心から感謝したい。
また、真に面白い児童書、あるいはファンタジーが、年齢の垣根を越えて広く
人々に愛されるということもまた、大きな事実である。
 私にとってファンタジーとは、もっとも古い友だちであると同時に、
また新たに友好関係を築きたい、魅力的な存在である。
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