フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
2002-3-5活動報告書 各イベント レジュメ、プログラム
この記事は2002-3-4から2002-3-6まであります。
仏像とブルカの<アフガニスタン> 資料
【1】
中村哲「本当は誰が私を壊すのか」−バーミヤン・大仏の現場で−(朝日新聞4月3日)
・・・・
 三月十九日朝、タリバンによる仏像の破壊が世界中で取りざたされる頃、
私は現地にいた。巨大石仏の破壊は半分終わったところで、散発的な先戦闘が
続いていた。タリバン兵士とハザラの軍民だけが居る状態で、大方の村落は
もぬけの殻だった。大部分の人々はカブールの戦跡を頼って逃げ出した跡だったが、
実は仏跡に興味があって来たのではなかった。私たちPMS(ペシャワール会・
医療サービス)が二月下旬、カブールへの緊急医療支援を決定し、・・・・。
 戦乱だけでなく、この三十年で最悪の早魃で、アフガニスタン国家が崩壊するか
否かのせとぎわである。すでに前年夏の段階で、国連機関は「一千万人が被災、
予想される餓死者百万人」と、世界に警告を発し続けていた。
・・・・
 およそこのような中での、国連制裁であり、仏跡破壊問題であった。
早魃にあえぐ人々にとって、これがどのように移っただろうか。仏跡問題が
最も熱をおびていた頃、手紙がアフガン人職員から届けられた。
 「遺憾です。職員一同、全イスラム教徒に代わって謝罪します。他人の信仰を
冒涜するのはわれわれの気持ちではありません。日本がアフガン人を誤解せぬよう
切望します。」
 私は朝礼で彼らの厚意に応えた。「我々は非難の合唱に加わらない。
餓死者百万人という中で、今議論する暇はない。
・・・・人類の文化・文明とは何か。考える機会を与えてくれた神に感謝する。
真の『人類共通の文化遺産』とは、平和・相互扶助の精神である。
それは我々の心の中に築かれるべきものだ」
 その数日後、バーミヤンで半身を留めた大仏を見たとき、何故かいたわしい姿が、
ひとつの啓示を与えるようであった。「本当は誰が私を壊すのか」。その巌の沈黙は、
よし無数の岩石塊と成り果てても、全ての人間の愚かさを一身に背負って
逝こうとする意志である。・・・・
【2】
TBSテレビ〈報道特集〉

【3】
中村哲『ほんとうのアフガニスタン』
 それから女性も、隠れ学校というのがありまして、ユニセフを中心にして、
女性のための学校教育がおこなわれておった。「隠れ学校」といいますが、
カブールだけで数十ヶ所あって、そんなところがばれないはずがない。中には
タリバンの子供さんたちも、そこで学んでおったということもあります。・・・・
 ・・・・ブルカ着用でもそうで、ほとんどの農村の、これはペシャワールでもそうですし、
あれは一種の女性の外出着です。普通の女性は必ずこれを着用しています。だから、
ブルカ着用は可哀想というなら、日本女性の和装に欠かせない帯を、あんなに体を
きつく締めて可哀想に、解放してあげなくてはという類の余計なお世話でもあったわけです。

【4】
モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は・・・・』126〜131頁

【5】
中村哲『医者井戸を掘る』
 「人権侵害」を掲げる欧米諸国のタリバン批判は、日本国民の中にも多くの賛同者を
得ていた。しかし、その多くは、ブルカ(女性の被りもの)を性差別だと排撃したり、
伝統的な慣習法を野蛮だと非難するものであった。先に述べたように、米国による
女性救済策、「アフガン人女性の亡命を助ける計画」は、ごく一握りの西欧化した
上流階級の女性だけに恩恵が与えられた。これは、グローバルな「国際的階級分化」である。
途上国の富裕層が西欧化し、先進国国民と隔たりがなくなったとき、彼らは
いとも簡単に祖国を捨てて逃げ出すことができる。そして彼らの声のみが、徒に大きく、
世界に説得力を以って伝えられたのである。外電によるとパリでは、「反タリバン・
キャンペーン」がヒステリックな様相を帯び、市中の女性の銅像にブルカを被せるなど、<BR> 挑発的なものであった。だが、私に言わせれば、汗して働き、社会を底辺から支える
殆どの農村女性の権利は考慮されなかったのだ。・・・・

【6】
ニルファー・パズィラ『カンダハール』主演女優来日会見(『ユリイカ』)
 最初ブルカを被ったときには、息が詰まりそうで、嫌でしょうがありませんでした。
一刻も早く撮影を終了して、このブルカを被らなくてもよい日が来るのをまちきれませんでした。
ところが撮影が進むにつれ、私自身のブルカの捉え方が変わっていきました。
 撮影は非常に治安状況が不安定な国境沿いで行われていたため、偽りのものではあれ、
ブルカを身にまとうことによる安心感、居心地の良さを感じるようになっていたのです。
例えば、最終日に近い撮影の時でしたが、砂漠を歩いていく時に、ふと、
全く見知らぬ人たちが自分に視線を送っているのに気がつきました。その時私は、
上げていたブルカを下ろして顔を隠してしまったのです。
 私は別にブルカを被らなくてもいいのだと、自分を叱陀しましたが、
それから数歩進んだところで、まったく同じことを繰り返している自分がいました。
 そこで分かったのは、アフガニスタンのような危険な状況下で暮らす女たちにとって、
ブルカは安心を与えるものになっているのだということです。アフガニスタンの女性は、
すべての政権とすべての軍閥によって、犠牲者として痛めつけられ、拷問にかけられ、
そしてレイプされてきました。彼女たちにとってはこのブルカが与える偽りの安心感は、
やはり手放したくないものなのかもしれないと感じるようになり、私自身の
ブルカの捉え方も大きく変わりました。そもそもブルカは抑圧の象徴です。
しかし、それは安全ではない場所に住む人間にとっては、抑圧ではなく
自分を守ってくれるものであり、たとえ偽りであっても、精神的な拠り所と
していくのだということが分かったのです。
 これは決してブルカを擁護するものではありません。あくまでも抑圧状況下で
ブルカを身につけることは、精神にそういった変化を生じさせるということです。

【7】
『聖クルアーン』「部族同盟」(日本ムスリム協会)
 本当にムスリムの男と女、信仰する男と女、
 献身的な男と女、忠誠な男と女
 堅忍な男と女、謙虚な男と女
 施しをする男と女、斎戒(断食)する男と女、
 貞節な男と女、アッラーを多く唱念する男と女
 これらの者のために、アッラーは罪を赦し、偉大な報奨を準備なされる。

【8】
『聖クルアーン』「御光章」(日本ムスリム協会)
 信者の女たちに言ってやるがいい。
 かの女らの視線を低くし、貞淑を守れ。
 外に表れるものの外は、かの女らの美(や飾り)目立たせてはならない。
 それからヴェイルをその胸の上に垂れなさい。自分の夫または父の外は、
かの女の美(や飾り)を表してはならない。
『コーラン』「光り」(井筒俊彦訳)
 外部に出ている部分はしかたがないが、そのほかの美しいところは人に見せぬよう。
   胸には蔽いをかぶせるよう。・・・・

【9】
対談モフセン・マフマルバフ/西谷修「『カンダハール』をめぐって」(『ユリイカ』)
西谷・・・・マフマルバフさんの映画監督になられた経緯などを聞いて、
これだけはお聞きしたかったことがあります。マフマルバフさんにとって
「イスラーム」とはなんでしょうか。
マフマルバフ その質問はわたしにとって、イスラームはなにかというよりは、
宗教はなにかということだと思うんです。イスラームもまた宗教の一つであるわけですからね。
イスラームもまた映画のように、どの監督が撮っているのかというこことによって、
違ってくるものだと思います。たくさんのムスリムがいると思いますが、一人一人の
ムスリムの数だけイスラームは存在していると思います。先程の現実の話と同じで、
見る目によって変わってくるのです。
西谷・・・・しかし、依然としてマフマルバフさんは、現代のイランの多くの
知識人にとってと同じように、儀礼をするしないということは別として、
イスラームはやはり生存の一部になっているのではないかと思います。それについて
マフマルバフさんはどうお考えなのかということがしりたかった。・・・・
マフマルバフ ・・・・自分の中では、世界を動かしているエネルギーみたいなものを
すごく感じるんです。そのエネルギーを信じているし、そこからエネルギーを
貰っていると思います。それはわたしの場合ですけれど、イランの中の
イスラームというのは、やはり各人によって違うと思います。
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