フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
10-3・私の薦めるこの一冊
2003年10月20日発行『読書運動通信10号』掲載記事4件中3件目
「よォーそろォー」--『シェエラザード』浅田次郎 (講談社)
 「よォーそろォー」。そんな言葉でこの物語は締めくくられている。
私も一応は船乗りの娘という立場なのだが、なんとも情けない話で、
実はこの言葉、漠然と知っているつもりになっていただけで、
特に深く考えたことはなかった。
 『シェエラザード』は決別の物語である。冒頭の場面においてそれは
明らかにされている。軽部順一の元を訪れた沈没船のサルベージに関する依頼。
このこと一つだけでこの物語は全て語れてしまう。物語の発端は
既に起こってしまったものであり、船は水底に沈んでいる。事件は既に起き、
それは遥か過去の彼方にあるのだから。しかしその裏に潜む真実はそこでは
まだ語られない。人が生き、それぞれが大切な何かを胸に抱き、苦しみ、
それでも懸命に足掻いて、生きようとすること。『シェエラザード』は
弥勒丸で生きた人々と、弥勒丸に関わった人々の歴史の記録なのだ。
軽部は、今はもう人々の記憶の奥底にさえ沈もうとしている1隻の沈没船
――弥勒丸の真実を追う。そして、それと同時に少しずつ、少しずつ、
私たちの前に弥勒丸の姿が見え始める。豪華客船であるはずの弥勒丸が
戦争の渦に巻き込まれ、米軍によって沈められた、その顛末が。
 どうあっても、沈没船という決定された事項を考えるに、弥勒丸は救われない。
過去、一つの船が滅びへと導かれたのを、私たちは読んで知っているのに、
それでも誰かに否定して欲しい気持ちで私はページを繰った。
けれど、そこにあるのはやはり変わりなく滅びだった。現在から見て、
定まってしまっている過去という事実は、どれほど惜しんでも、
どれほど心が痛んでも、もうニ度と戻りはしない。心の中で輝く
かけがえのないものが沈んでしまった後の哀しみが、この小説の根幹なのだ。
 この船を引き上げようとしているのは一人の老人で、宋英明と名乗る。
登場した時から彼の姿は真っ直ぐでしたたかで、そしてどこか老獪な
イメージを持っていた。目的の為ならばどんな手段も卑怯も厭わない、
その強さ。しかし、それ程に決して手が届かないものを欲しがる彼の姿は、
私たちの心にどうしようもなく哀しみの波を寄せる。それでも欲せずにおけない、
やり場のない怒りと、哀しみとが、彼の全てだ。宋英明と言うのはいわば
亡霊のようなものである。弥勒丸を引き上げる為だけに生きる屍。彼はただ
その為に生きていた。美しく懐かしい、その白い船体を己が瞳に再び映すこと、
それだけの為に。
 「よォーそろォー」。正しくは「宜しく候」と言う。彼らはこう言って、
船と共に沈んでいった。始めから分かっていたはずなのに、私は涙が溢れ、
それを止める術を持たなかった。何ということもない言葉。そんなものにさえ
心を動かされ、こらえようとしても唇が震えた。悔しくて仕方のない、
どうしても取り戻したい、巻き戻したいもやもやとした気持ち。
自分の力の及ばない場所で起こってしまう哀しい事柄を、読者は
受け止めるしか出来ないのだ。触れたいと思っても、触れることは叶わない。
 その点で、私たちは恐らく軽部たちと同じ気持ちを共有していることになる。
軽部や軽部の協力者である久光律子がそうであるように、私たちも弥勒丸の
過去をどうしても知りたい、取り戻したいと思う。だからこそ、悔しいのも
やるせないのも本当だ。しかし、私はそれと同時に心のどこかで、彼らの生き様が
誇らしかった。乗組員たちは、歌うように「よォそろォー」と海の合言葉を
唇から紡ぎ、悠然とした態度で最期の瞬間を迎える。海軍中尉正木幸吉は
これを見た時、「それほど堂々とした、矜り高い男たちを私はかつて見たことが
なかった」と言う。こういった彼らのまっすぐに伸びた姿勢、ひたむきな眼差しは、
読んでみなければ分からないと思う。例えば、私がこの「よォそろォー」で
泣いてしまうと言っても、『シェエラザード』未読の方々は「え? 何で!?」
とお思いになることだろう。ところがこれが不思議な話で、正木が「よォそろォー」
と言葉が自分の咽を滑り出たとたんに泣いてしまうシーンは、何故か私も
一緒になって泣いてしまう。一ヶ月程を共に生きた彼らは、軍人と船員同士で
最初は諍いもあったのだ。けれど少しずつ打ち解け、親交もあった。
軍人も船員も一緒になって食事し、レコードを聴いた。そして、
死を前にして船中から聴こえてくる船員たちの「よォそろォー」
と言う声に、正木は静かに泣く。弥勒丸のラストシーンは、
そうとは思えないほど静かで荘厳な、堂々としたものだった。

 こんな駄文でおこがましい話ではあるが、もし私の文章を読んで少しでも
この小説に興味をお持ちになった方は、是非読んでみて頂きたいと思う。
理不尽な出来事に何度も悩み、苦しみ、それでも胸を張って生き、
しなやかな客船でありながら3隻の敵潜水艦にも怯まずに挑んだ彼らを
見て欲しい。私が軽部を主人公と書かなかった訳が、きっと分かるだろう。
『シェエラザード』は弥勒丸が主人公である。故に、その乗組員たちも
また主人公なのだ。この船で生きた者たちが、この小説の全てなのである。
あなたにも、弥勒丸をどうぞ、愛して欲しい。先の見えない未来に戸惑い、
不器用で、何度も挫けそうになりながらそれでも懸命に生きた彼らを。
 (『シェエラザード』は実際にあった事件を基に書かれたフィクションです。
ややこしい書き方をしてしまって分かりにくかったことと思います。
申し訳ありませんでした)
(卒業生 田邉洋美)
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