フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
44-4.紹介 私の好きな児童文学 第5回
2007年8月31日発行読書運動通信第44号掲載記事6件中4件目
特集:前期の活動を振り返って
お知らせ:後期の活動、大学祭イベント他
紹介:私の好きな児童文学〜第4回
募集:創作コンクール、ザ・表現!他
『雪の女王(アンデルセン童話選)』 アンデルセン著
 請求記号 909.8||I95||12   資料番 102149780 緑園4F

 子どもの頃ずっと、自分の心がひねくれていて意地悪なのはきっと、
悪魔の鏡が私の目と心臓に深々と刺さって抜けないからなんだ、と本気で信じていた。
人の心を歪めて映す、悪魔の鏡の破片。
 だからそのことを大人から指摘され、注意されるたびに
「私のせいじゃ、ないもん」と反省するでもなく、俯いて不貞腐れていたものだ。
けれどその「悪魔の鏡」という発想が一体何処から芽生えたものなのか、
相当長い時間思い出すことはなかった。
(というより、思い出せなかったというべきか)
 その鏡の出典を知ったのは、病院の待合室で暇つぶしに絵本を
眺めているときだった。
モザイク絵のうつくしい表紙につつまれた、『雪の女王』というアンデルセンの絵本。
ぱらぱらと頁をめくってみると、漠然とした物語の残滓のような記憶がうっすらと
蘇ってきた。
ただ、不思議なことにこの絵本を自分で読んだ記憶はなかった。
隣の席に座っている幼稚園児くらいの子どもが、抱っこしている母親に
「読んで、読んで」と懸命にせがんでいるが、母親は風邪でも引いているのか、
ぱらぱらとページをめくってやるだけで、本を読んであげようとはしなかった。
そのやりとりを聞きつつふと、読んだわけでもないのに知っているこのお話の記憶は、
母が読み聞かせてくれたときのものなのだなあ、と思い出した。
そういえば私の母は、掃除するのも食事を作るのも億劫がる人だったけれど、
本を読み聞かせることを億劫がることは一度もなかった。毎夜毎夜、
請われなくとも母は私と妹の枕もとで、ささやくような小さな声で
本を読んでくれたものだ。『グリム童話』から始まって、『星の王子さま』、
『十五少年漂流記』と、一晩では絶対読みきれない分量の本を、
何日もかけて根気強く最後まで読みつづけてくれたのは、
自称「子育て嫌い」の母にしては奇跡と言っても過言ではない。
あまりの長さに子どもたちがうとうとと眠り込んでしまうことも
しばしばあったけれど、母の語ってくれる物語は、子どもの時分に隣のピアノ教室から
聞こえてきた不安定な音律のように、今も記憶の片隅に居座ったまま消えない。
 そして『雪の女王』もまた、母がそうして読み聞かせてくれたお話のひとつだった。
ただ、幼い私はきっとうとうとしながら聞いていたからだろう。
その悪魔の鏡の破片が少年の柔らかなこころを刺し貫き、雪の女王に
氷のようなキスをされて連れ去られたところまでしか覚えていなかった。
ざわざわと子どもたちが騒ぎまわる病院の待合室のよどんだ空気の午後、
私はその絵本をゆっくりと、子どもが一文字一文字読み上げるように、
丁寧に読み進めた。

アンデルセンの『雪の女王』は、世界を雪と氷で支配しようとする
美しい雪の女王にさらわれた少年カイを取り戻すべく、
少女ゲルダが長い長い旅に出、様々な出会いと別れ、苦難を経て
雪の女王の宮殿に辿りつく。雪の女王のつめたい息吹と悪魔の鏡の破片によって
凍りついたカイのこころを、ゲルダの熱い涙とやさしいこころが溶かし、
もとの美しいこころを取り戻したカイとゲルダは手をとりあって
懐かしい町に帰還する。そうして町に戻った彼らはその長い旅路の果てに、
自分たちの幼年期がこの長い冒険の果てに終わりを迎え、
大人になったことを知るのだ。
 あらすじは至極単純だが、ゲルダの長い道行きで出会う人々にも
そのエピソードにも、それぞれに含蓄も皮肉もあってなかなか読み応えがある。
口々に嘘ばかり吐くバラの花たち、見栄っ張りで俗っぽいカラスの夫婦。
ゲルダをお姫様と信じ、愛憎入り乱れた奇妙な優しさで彼女を助ける山賊の娘に、
賢者のように知恵を授け雪の女王の国への道を示すフィン人の女。
脇役たちは皆、ステレオタイプな、やさしくヒロインであるゲルダを
見守るばかりではなく、どちらかと言えば少し距離を置いてゲルダの
苦難の旅をサポートしているようだ。過度の温もりを与える炎というよりも、
冷たい風を遮る一枚の毛布のような存在である脇役たちは、アンデルセン童話に
通底する「出会いと別れ」の反復をよりはっきりと際立たせる象徴的な存在だ。
すべての出会いが幸福で優しいばかりではない。ときに皮肉や嫉みを孕んだ
複雑な感情を滲ませて主人公を見守る彼らの存在は、須く彼女の道行きの糧となる。
厳しい旅を続け強く成長していく少女ゲルダと、幼く歪んだこころを
かかえて氷の城でひとり「永遠」の文字を追い求めて堂々巡りを繰り返すカイ。
この対照的な過程を読み込めば読み込むほど、少年カイの幼さが際立つのだ。
少女は旅を経て大人になる。そして少年はその目に刺さった悪意の鏡に
より理知を得ながらも少女の熱い涙を受けるまで成長を止め、熱い抱擁と
涙を受けるまで我を忘れて「理知あそび」に夢中になる。
 なんだかこのくだり、現代の少年にも共通しているような気がするのは
きっと私だけではないと思う。冷たく温度のない氷の女王の城から出られず、
「理知あそび」に興じて麻痺したこころをもてあますカイの姿に、
現代の少年たちが日がな一日ゲーム興じて自室に閉じこもる様を重ねてしまうのだ。
 もしかしたら、こころを歪める悪魔の鏡は、幸福な子ども時代に一度は受ける
洗礼のようなものなのかもしれない。生まれたままのこころが持っていない
「悪意」を、あるとき突然受けたとき、それは鏡の破片が刺さったような衝撃や
痛みと受け止められる。それは大人になるためには避けて通れない通過儀礼の
ようなものだが、カイはその鏡の破片がもたらす歪みをそのままに、
雪の女王と出会い、その冷たいキスで頑ななこころを凍りつかせて成長を
やめてしまった。ゲルダが長い旅の果てに彼のこころを溶かす日まで。
 さて私のこころに刺さっている悪魔の鏡の破片は、誰かの涙によって
流れ落ちたのだろうか、それともまだ深々と刺さったままなのだろうか。
そんな詮無きことを思う。歪んで意地悪だった自分を猛省し、
心根を入れかえた記憶も特にないので、きっとその破片は長い年月をかけて
私の身体の一部となってしまったのだろう。まあそれも全ては今更だけれども、
幼く歪んだ私にもゲルダのような、強くて罪のないこころを持った片割れが
寄り添ってくれたならどんなにかよかっただろう。
 願わくはその悪魔の鏡が、この幼い子どもたちの目を貫いてもいつか
熱い涙で溶かされ流されるよう、ゲルダのような片割れに出会い頑な
こころが絆されるよう、母親の膝の上で落ち着かない様子でもぞもぞしている
男の子の姿を横目で見ながら思う。
 そして、破片を抱えたまま大人になりかけている若い大学生の皆さんにも、
一度是非ともこの物語を読んでもらいたい。子どもの頃確かに持っていた
あの瑞々しい気持ちがまた、ゲルダの涙とともにどっと溢れ出してくるかもしれない。
(大学図書館 戸谷有美)
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