フェリス女学院大学附属図書館読書運動プロジェクト「フェリスの一冊の本」
45-3.紹介 私の好きな児童文学・第6回
2007年9月30日読書運動通信第45号掲載記事5件中3件目
特集:ライトノベルの現在
お知らせ:創作コンクール,ザ・表現!作品募集
紹介:私の好きな児童文学〜第5回
募集:創作コンクール、ザ・表現!他
『三国志演義』羅貫中 著  井波律子 訳
ちくま文庫  請求記号 サ||19||1〜7  資料番号 103020870

 有名すぎて特に紹介も必要ないかもしれないが、中国明代に成立した
通俗歴史小説で、『水滸伝』『金瓶梅』『西遊記』と並ぶ四大奇書の一
つである。日本では陳寿の書いた歴史書である正史『三国志』と混同さ
れることがままあるが、『三国演義』または『三国志通俗演義』が正式
名称である。日本では『三国志演義』とされることが多い。
 この本は大勢の講釈師によって語られた説話(語り物)が羅貫中(施
耐庵とも)によってまとめられたものだ。中国の伝統的な価値観では、
文学とは歴史書や詩文のことであり、小説は知識人の読み物ではなかっ
た。が、『三国志演義』と『水滸伝』は、例外的に知識人の蔵書目録に
入っていることが多い。語り物を集大成するにあたり、羅貫中は荒唐無
稽なところを減らし、史実に基づいた記述を増やしたり、様々な工夫を
したからだろう。

 時は後漢末(西暦180年頃)、朝廷は機能不全に陥り、全国に軍閥や
盗賊団が割拠していた。中でも、都にあって皇帝にとって変わろうとす
る曹操と、穀倉地帯である長江下流域を基盤とする孫権は、着々と力を
つけていた。そこへ漢帝室の流れを汲む劉備が、義兄弟の関羽、張飛を
従え、智謀の士、諸葛亮を軍師に招き、混乱を極める時代を平定しよう
と立ち上る。以後、北方は魏の国の曹操、南方は呉の国の孫権、西方は
蜀の国の劉備と三国に分かれ覇権を争うことになる。後漢末の混乱から
三国時代を経て晋の統一までの百年余を書く歴史ロマンである。

 中国国内はもちろん、アジア各国で世紀を超えて親しまれてきたこの
本は、日本でも様々なバージョンが出版されメディアミックスも盛んに
行われるなど、たくさんの愛好者を生み出している。
 私は吉川英治版の『三国志』が一番好きだ。もちろんこれも正史『三
国志』の翻訳ではなく、『三国演義』をベースにした小説である。
 この本に出会ったのは、中学生の頃だった。どんなきっかけでこの本
を買ったのかは覚えていないが、中学、高校時代を通して、私の一番の
愛読書であった。まず、吉川英治の文体が非常に好みだった。淡々とし
ていて上品で、中国が舞台なのに和ものの雰囲気があり、知的で物静か
な常識人らしい著者の人柄がにじみ出ている。
 吉川は、前半を劉備、後半は諸葛亮の活躍を中心に描いているが、私
は仙人のような諸葛亮が大好きだった。史実では、実直な政治家ではあ
るが戦下手で、蜀の国の滅亡を早めた張本人とさえ言われる彼だが、正
史『三国志』以外では大活躍だ。天に祈って風を呼んだり、人の死期を
予知したり、彼がしていないのは、もはや空を飛ぶことだけ、現在世に
あるファンタジー小説に書かれている魔法のほとんどは、すでに諸葛亮
がやっているといっても過言ではない。
 私が中国に興味を持つきっかけになったのはパール・バックの『大地』
だったが、吉川版『三国志』を皮切りに、『聊斎志異』『剪灯新話』
『三言二拍』などの白話小説(口語で書かれた小説)にどんどん惹かれ
ていった。
 大学は外国語学部中国語学科だった。が、入った大学には文学部がな
く、ひたすら語学の毎日で、漢詩や『史記』や『老子』等を学べると思
っていた私は大いにがっかりしたものだ。
 それでも、大学時代は楽しかった。始めて中国に短期留学したのは大
学3年のときのことだが、見るもの聞くものすべてが珍しく、広大な天
安門広場、路地裏の柳の木、人々の無愛想さまでもが、「おお!中国!」
といちいち私を感動させた。
 私の脳は生まれつき左右がよくわからない。それなのに一人歩きが好
きだったから、よく迷った。そして片言の中国語で道を聞き、さらに迷
う。言葉もままならぬ外国の、知らない街で迷子になることはもちろん
不安だった。が、歩いていればいずれ着く、着いてしまうのだ、という
楽観ともあきらめともつかぬ気持ちにもなった。
 その辻をどちらに曲がるのか、悩んで立ち止まった私の脇を、猛烈な
排気ガスを噴出しながら、車が恐ろしい勢いで通り過ぎていく。それは
私に、時代を走りぬける英雄の影で、誰に顧みられることなく生き、死
んでいく平凡な民衆、お前もその一人なのだ、といっているような気が
した、私は子どもっぽい全能感から脱却し、大人へと変化する端緒を、
中国の街角でつかんだのだ。けれども、そこにあったのは自分が特別な
人間ではなかったという絶望ではない。長い歴史の先に私が存在し、私
の死後にも長い歴史が続いていくのだという、時の流れを幻視したよう
な高揚感だった。それは単なる「ランナーズ・ハイ」だったかもしれな
いし、あるいは殺人的な排気ガスによる酸欠妄想かもしれない。
 が、いずれにせよ私は『三国志』に夢中になり、まるで浦島太郎のよ
うに過ごした。
 読書するたった数日のうちに、後漢の滅亡、三国の鼎立、そして晋の
統一という、百年が過ぎたのだ。

 しかし敗るるや、急激だった。四世五十二年にわたる呉の国業も、
孫哠が半生の暴政によって一朝に滅んだ。――陸路を船路を、北から
南へと駸駸と犯し来れ るもののすべてそれは新しき国の名を持つ晋
の旗であった。
 三国は晋一国となった。

『松に古今の色無シ』相響き相奏で釈然と醒めきたれば、古往今来す
べて一色、この輪廻と春秋の外ではあり得ない。

 という最後の一文に『三国志』の真髄があらわされている。
 この物語の真の主役は、時の流れなのだ。
 若く感性の柔らかなうちに是非読んでおいて欲しい一冊である。
(図書館 鈴木)
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